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「富岡多恵子」のことと「〇カのS沢」のこと


先日、作家で詩人の富岡多恵子が亡くなった。昭和十年生まれとあるから、ちょうど私の両親と同じ世代だ。亡くなったという報道はあったけれど、それ以外に特に何もなく、追悼文もあまり見かけない。2000年代に入ってからはあまり活躍していなかったようだから、もう引退していたのかもしれない。

と書いてみて、私も特にファンだったわけではない。何冊か、小説を読んだ程度だ。私の場合、女性作家の小説は、ほとんど読めない。どれも途中でやめてしまう。なんでなのか理由を考えたことがないが、エッセイは読めても、小説は読めないのだ。

例外的に読めた数少ない女性作家が、富岡多恵子だった。だから少し思いれがある。

富岡多恵子は、詩人で、小説家で、文芸評論も書いて、エッセイも書いて、『心中天網島』などの映画のシナリオもいくつか書いている。

1976年には詩の朗読のようなアルバムも出している。作曲や編曲、バックは坂本龍一が一人でやっている。今回、坂本龍一が死去したことで、YouTubeでは、にわかにクロースアップされている。



富岡多恵子は、関西のお笑いにも詳しく、芸人論や評伝なども書いている。ヒット作は特にないようだが、評論『中勘助の恋』や『西鶴のかたり』『釋迢空ノート』が有名だろうか。上野千鶴子、小倉千加子との鼎談『男流文学論』が一番知られているかもしれない。

私は最初、池田満寿夫の著作を介して、その存在を知った。かつて私は、版画家で作家の池田満寿夫の大ファンだった。池田満寿夫は、生涯に4人の女性と実質の結婚生活を送っている。富岡多恵子は、その二人目の女性だった。


その後に富岡多恵子が結婚した現代美術家の菅木志雄は、私と同じ盛岡の人だった。ある時期、彼等は岩手の別荘で生活をしていたことがあり(多分)、市内で何度か目撃したりして、一方的に親近感を抱いていた。

そんなだから、亡くなった時は、本当ならば合掌すべきなのだろうが、便乗して、何かを書きたくなった。いつものように、私は罰当たりだ。


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私が読んだ範囲の富岡多恵子の小説は、大体、はみ出した人を書いていた。
それらはだいたい、3つに分類できる。

1 芸人とかばくち打ちとか、関西弁を使う人達のハナシ。

ばくち打ちの父親に翻弄される娘とか家族とかの視線で描かれていた。会社経営者とか実業家も、ばくち打ちのように描かれていたと思う。また、芸事を生業にする芸人の生きざまとか、駆け落ちとか、そんなハナシもあった。

2 作家などのインテリっぽい人が、不倫する主に標準語を使う男女のハナシ。

時制は現在で、職業不詳の女の私が主人公で、仕事や遊び仲間の男女の間で、なまぐさくなりそうな手前を、でもなまめかしく描いていた。このジャンルは、わかったようなわからないような、思わせぶりで実験的なものが多かったように思う。

3 知的水準の低い人が、自分なりの規範で動いて、最後に破滅する東北弁を使う人たちのハナシ。

思い込みが激しかったり、コトバで状況や気持ちを説明できない人間が出て来て、ほんの少し先のことも見通すことができずに、発作的に暴力に走ってしまう、そんなハナシだった。

と書いてみたのだが、私が富岡多恵子の本を読んでいたのは、1970年代の後半から80年代半ばにかけての10年間くらいだ。だからこの分類が、富岡多恵子の小説の全体に当てはまるのかは、わからない。

それに私が読んだのは小説だけで、詩や評論は読んでいない。読んでも途中で挫折している。それ以降は、富岡多恵子の新しい本を読んだことも、読んだ本を再読したこともなかった。だから40年前の記憶をもとにこれを書いていることになる。

そんなことだから、今書いているこの文章の内容も、かなりいい加減なものになっているに違いない。


1の小説も2の小説も3の小説でも、性的なことが通底していた。特に2と3は、登場人物たちは、性的な動機で行動をしていた。2は、男女の駆け引きみたいなハナシで、3は性欲に振り回されて破滅する後味の悪いハナシだ。

その当時は私も十代後半から二十代前半で、私自身が性欲に振り回されていた年代だから、富岡多恵子の性的な小説が、強く印象に残っているのだと思う。

それに当時は、そういう文学作品が多かった。中上健次の小説も、性欲と暴力に突き動かされる人を描いたものが多かったし、海外の、例えばレイモンド・カーヴァーも性欲と暴力がテーマの作品が多かったと思う。もしかしたら、そういったものを私が好んで読んでいたのかもしれない。

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富岡多恵子の小説で強烈に印象に残っているのが、「遠い空」という短編だ。分類的には、3に相当する。舞台は岩手のどこかで、聾唖の若い男が、野良作業をやっている50代、60代の女性に性交を求めて、繰り返しやってくるという、ハナシだった。一人がいなくなっても、そのキョウダイの男がまたやってくるという、ほとんどホラーのような小説だった。行為の最中、地べたに押し付けられ仰向けの視界に見えてる空が遠かった、みたいなハナシだった。

この小説を読んだ時、私は子供の頃に近所にいた男のことを思い浮かべた。
〇カのS沢と呼ばれていたその男は、私の数歳上の体の大きな奴だった。「〇カ」っていう表記は、いまどき駄目なのかもしれない。実際、そう呼ばれていたので、そのまま書こうと思ったが、〇カにしてみた。大丈夫だろうか?

バ〇のS沢は、小さい子供がいると、いつもニヤニヤ近づいてきて、おもむろに子供の頬をひっぱたき、子供が悲鳴を上げたり泣いたり逃げたりすると、ゲラゲラと大声で笑うのだった。

私も一度、ひっぱたかれたことがある。K谷しげきちゃんは、半ズボンの股から手を入れらて、性器を握られ、S木由紀ちゃんはスカートをめくられ下着の中に手を入れられた。〇カのS沢は、地域の要注意人物で、私たちには脅威の存在だった。

〇カのS沢が出現すると、私たちは、石を投げて応戦した。いや、応戦はしないか。こっちに向かって来そうだったら、石を投げつけて、走って逃げるのだ。

一度、私の投げた石が、〇カのS沢の上半身に、しっかりと当たったことがある。〇カのS沢は、大声で泣きながら家に帰っていった。

その時、私たちは、勝った!と思ったけど、石が顔に当たっていたら怪我になるなと、複雑な気持ちになったのだった。

〇カのS沢のお母さんは、いつも謝って歩いていた。被害にあった子供の家の、玄関の外で、頭を下げている姿を何度か見ている。

〇カのS沢がどこの学校に通っているのか、誰も知らなかったが、中学生のK原マコトくんが、あいつはヨーゴ学校だよと教えてくれた。しかし、ヨーゴ学校がなになのか、その頃の私にはわからなかった。

K原マコト君は、町内で唯一、〇カのS沢に話しかけ、おとなしくさせることの出来るすごい中学生だった。K原マコト君は、私の家の斜め向かいにあった、某建設会社の独身寮に、母親と二人で住んでいた。お母さんが、賄いの仕事をしていたのだ。お父さんは病気で亡くなったと聞いた。

K原マコト君は絵をかいていた。部屋の壁には石膏像の木炭デッサンが貼られていて、私は木炭という画材を生まれて初めて見た。遊びにいくと、彼がかいたいろいろな絵を、いつも見せてくれた。風景画や静物画に交じって、「サイボーグ009」なんかもあった。

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それがいつくらいのことなのか、思い出せないが、〇カのS沢のお母さんが、息子は自衛隊に入ったので、もう町内にはいないから安心してね、みたいなことを言って回っていた。

みんなに言っておいてね、と私は言われたのだが、自衛隊に入ったなんて信じなかった。私の母親は、かわいそうだけど、あの人が見栄っ張りだから駄目なのよ、と言っていた。

〇カのS沢はそれっきり、町内からいなくなった。何年か経って中学生になった私が、犬の散歩をしている時に、S沢の家が空き家になっていることに気がついた。

家に帰って母親に尋ねたら、ずいぶん前に引っ越したのだと言う。あんなことがあったから、いられなくなったのよ、と母親が言う。あんなことってなになのかと訊いたら、お前は知らなくていいと言われて、ハナシは打ち切りになった。私は勝手に、〇カのS沢が何が事件を起こしたのだと妄想した。

富岡多恵子の「遠い空」を読んだとき、私はこの〇カのS沢のことを思い出したのだった、ということを、40年経った今、思い出して書いている。

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〇カのS沢は、その後、どうなったのだろうか? どういう人生を歩んでいるのだろうか? と書いたけど、別に会いたいわけではないし、懐かしいわけでもない。

ただ、〇カのS沢やK原マコトくんがフツーにいた町内の空気は、妙に懐かしい。S沢の家のあった場所には、ずいぶん前から別の家が建っている。K原マコト君が母親と住んでいた某建設会社の寮は、とっくに更地になって、なぜか40年以上も空地のままだ。

K谷しげきちゃんやS木由紀ちゃんの住んでいた団地は、つい最近まで残っていたけど、今では戸建ての住宅が並んでいる。何もかも跡形がなくなってしまった。



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