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革靴

先日、久しぶりに革靴を履いた。私には革靴を履く習慣がない。履くときは冠婚葬祭に限られる。

前回履いたのは、義姉の葬儀の時だから、数年前だ。今回は義母の葬儀だ。

前回以降、革靴は靴箱の中にあった。何代か前の革靴は、靴箱にしまっているうちにカビが生えたり、反ったりして、履けなかったり、あるいは履く際には手入れが必要になったりした。

だから、一応、吸湿剤と防カビ剤を入れておいた。今回は、そのまま履ける感じだった。といっても、安物の合成皮革の靴だ。

その日はあいにくの大雨だった。革靴を履いて、礼服を着た私は、家から傘をさして、バス停に行った。なかなかの雨で、傘はさしてないよりはましだったが、全身が濡れた。

バスに乗って駅に行き、電車に乗って東京駅に行った。それから特急に乗り換えて、妻の実家のある駅へ行った。特急は快適で、座席にはコンセントも携帯の充電用の差し込みもあったからパソコンを開いて仕事をしている乗客も多かった。

私は先日買った単行本を読んだ。松村雄策という音楽関係のライターの『ハウリングの音が聴こえる』という本だ。松村雄策は去年に亡くなっており、この本は死後に編集されて出た著者11冊目の本だ。

電車の中の読書ははかどった。最近は、自宅で読書するのが苦手になって、本を読むときは、家の外であることが多い。そのせいか、積読が増えている。

トイレに行くときに周囲を観察したが、スマホとパソコンをいじっている人はいても、読書をしている人は、そこの車両にはいなかった。


電車を降りるとき、右足に違和感があった。改札を出てから確かめたら、靴底がはがれて、パクパクしていた。安物だから縫製なんかしてなくて、接着剤で止めてあったのだろう。かろうじて踵の部分が繋がっていた。

防カビ剤はともかく吸湿剤のせいで、底が剥がれたのだろうか、なんて考えながら、安物は駄目だなと思った。以前、履いていたリーガルの革靴は、10年以上ももった。といっても、もう30年も前のことだ。でも、思い出してみたらリーガルの一足しか、まともな革靴を履いたことがないのだ、私は。

最初に考えたのは、靴の修理だ。駅ビルには、そういう店がよくある。しかし、時間がなかった。確か出棺は11時の予定だった。その時は既に10:30分になっていた。葬儀場までタクシーで10分かると聞いていたから、焦った。

これは新しいのを買うしかないと思った。駅ビルに入って、入り口脇のインフォメーション・コーナーで靴屋があるか訊いた。コンセルジュだかなんだかの肩書をつけた受付嬢が、すぐ上の階にABCマートがあると教えてくれた。スニーカーの印象しかないABCマートだったが、革靴もあるだろうと思って向かった。


数日前に、約十年ぶりに義弟から連絡があった。妻の母が亡くなったという知らせだ。その時は、家族葬でやると聞いた。

その翌日から、義妹から、花代や香典の額などを記したメールがくるようになった。娘や息子が手伝ってくれて助かっているといった写真付きのメールもあった。

義弟に家族葬じゃなかったのかとメールをすると、周囲のすすめもあって普通の葬儀をすることにした返事がきた。それが、告別式の前夜だった。既に通夜も終わっていた。


ABCマートはエスカレーターを登ったすぐ左にあった。そこで店員さんが選んでくれた靴を買い、その場で履いた。そんなに高くない、でも見栄えの良いというやつだ。どこが見栄えが良いのか、私にはわからなかったが、店員さんがそう言ったのだ。壊れた靴は捨ててもらうことにした。

新しい靴を履いた私は、タクシー乗り場に急いだ。一瞬だけ、屋根のないところを通らなければいけなかった。傘をさしたが、強風ですぐに裏返ってしまった。わずか20秒ほどだったが、全身ずぶ濡れになってしまった。

タクシーはきっかり10分で、葬儀場に着いた。10年ぶりで見る棺の中の妻の母は、頬がふっくらとして、私が見たことのない顔をしていた。不義理をしていてごめんなさいと、声に出さないで謝った。

義母は60歳で認知症を発症し、70歳で施設に入居し、2011年の震災で色んな事情が重なり、3か月間、車いす上で生活をするこことを余儀なくされて、その結果、自分では歩かなくなった。施設の機能が平常に戻ってからは、ベッド上で過ごすようになり、2013年からは胃瘻になった。

その間、2009年に車に轢かれて亡くなった義父の、慰謝料や保険金を巡って、ゴタゴタと、わけのわからない出来事が繰り返されていた。いわれのない誹謗や中傷が、妻と私に向けられた、と私の記憶には刻まれている。当時、妻と私は事実婚で、入籍はしていなかった。妻は長女で、弟は婿養子となって籍を離れ、妹も嫁に行っていた。

結局、妻と私は、妻の親戚や妻のキョウダイ達とは距離をとることにした。慰謝料と保険金は、長男が管理することになった。それからは、義母のお見舞いにも行かないようになった。他にも事情があって、妻は私の籍に入ることを望んだので入籍した。

10年ぶりで顔を合わせた妻の肉親たちは、特に何事もなく普通だった。皆、年老い、穏やかな顔になっていた。私もフツーに接した。今回、妻は体調不良で葬儀は欠席だったから、私一人での参加だった。完全アウェイの状況だ。

出棺の際は、長女である妻の代理で、私が遺影を持って霊柩車の助手席に座った。その後は、挨拶こそさせられなかったが、喪主である妻の弟と並んで、なにかとやらねばならなかった。

わからないことは全部、義弟の息子や義妹の娘に聞いた。彼等は二十代半ばになっていた。事務的なやりとりは、彼らが一番明確に把握しており、合理的だった。火葬も告別式も、初七日も、お墓への納骨も、一日でやってしまうようだった。

私は完全にお客さん状態で、言われたことをやればいいから、楽と言えば楽だった。全てを終えて、払うものを払って、スマホで写真を撮りまくって、結局、東京の家に着いたのは夜中だった。帰りの電車の記憶がない。

その日のうちに、妻に写真を見せて報告した。なんだか、やたらと疲れたが、私一人でも行って良かったなと思った。

新しい靴は、靴擦れも起こらず、とても履きやすい靴だった。選んでくれた店員さんに心から感謝をしたい。

そして、義母さんに合掌。
お疲れ様でした。安らかにお冥りください。

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