見出し画像

没後五年にしてやっぱり孤独だったなと思うショーケンのロック



   ↑  「傷だらけの天使」 軽妙な!反射神経全開

もう5年が経ってしまった


2024年もいつの間にか3月になってしまった。もうじき、坂本龍一が亡くなってから、1年になる。早いなと思う。

3月と言えば、坂本の前に内田裕也と萩原健一の命日がある。2人とも、2019年の3月に亡くなっている。内田裕也が17日で、ショーケンは26日だ。

5年も経ってしまっている。2019年というと、年号だと平成の31年だ。ついこの間のような気もするが、もうそんなに経ったのか、という気もする。

内田裕也に関しては、今でも時々、近田春夫や若い人達が語っているのを目にしたり耳にしたりするが、萩原健一については、誰も語らなくなった。

萩原健一は、本当に孤独だったのだと思う。芸能界で仲が良かった人も思い浮かばないし、若い世代で、萩原健一を慕っていた人も、ファンを表明している人以外、一人も思い浮かばない。

それは本人が、人付き合いが下手だったことと、後輩や年下に慕われていなかったからなのだと思う。というか、後輩の面倒を見るなんてことを、ショーケンはしなかったのだと思う。

一方、内田裕也の場合は、後輩や若い人達の面倒見はとても良い人で、その結果、年下の若い人達からはかなり慕われるようになっていたのだと思う。

2人が亡くなった頃に出た雑誌の追悼特集などを見ると、ショーケンの場合、その業績や人柄を好意的に述べた人は、ショーケンより年上が多かった。ショーケンは、ショーケンよりも年上の人達に評価され、かわいがられた人なのだ。

そういう年上は、ショーケンが亡くなった5年前でも、物故者が多くて、人数が少なかったから、やけに寂しい印象を、私は受けたのだった。

   ↑ 「前略おふくろさま」の1回目の冒頭 


70年代のショーケンはカッコよかった



ショーケンが、扱いづらい人、面倒くさい人、問題を起こす人になったのは、いつからなのだろうか? ある時期から、ショーケンはそのようなポジションに身を置くようになって、長い時間を過ごして、そのまま亡くなってしまった。

私は子供の時、テレビでテンプターズを見て、ショーケンのファンになって、それ以降、ショーケンの演技や音楽を、ある種の屈折を持って追っかけてきた。大好きだったのだが、かなり限定的な大好きだった。

振り返ってみると、私が大好きだったショーケンは、1970年代のショーケンだった。

演技は、1980年の『影武者』に出演する前までだ。『影武者』以降は、つまらなくなったと思っている。だからつまらなくなってからの方が、ショーケンの人生は、圧倒的に長い。

音楽は、1980年の暮れに出した『Don Juan Live』までだ。それよりあとは、なんだかなあ、と思うのだ。

だから、私が評価する時期はかなり短い。その後の長い間を、私は、いつも、あの頃をもう一度、みたいな感じでショーケンに期待しながら、ずっと裏切られてきた。私の勝手なのだけど、そんな風に思っている。

70年代のショーケンは、お調子者で、類まれな反射神経があって、映画やドラマや世の中の、シナリオのようなものを瞬間的に越えて揺さぶってくる、演技のようなナマのような、態度が、ずば抜けてかっこよかった。

歌も、歌謡曲だろうが演歌だろうが、歌謡ロックだろうが、何を歌っても、声の投げつけ方が、まぎれもなくロックだった。

    ↑  1977年頃のテレビ出演。柳ジョージや井上堯之もいる

そういうショーケンは、1981年あたりを過ぎると、二度と見ることが出来なくなった。それ以降になると、演技は、力んで堅苦しくなり、歌は崩すことが芸風になって、ただの繰り返しになった。

要するに、私は81年以降のショーケンを受け入れられなかったのだ。その割に、私はかなりショーケンに執着していた。特に音楽活動は、気になって、ずっと追い続けていた。


2003年の復活?はあんまりだった



80年代半ばまで、旺盛にライブ活動をするショーケンは、それこそ日本のロックをもっとも体現した人、のように言われて、それなりに人気もあったと思う。しかし、私は、あんなに崩して歌う歌い方に、やっぱり結構な抵抗があった。

とはいえ、ショーケンのバンドは、ドンジュアン・ロックンロール・バンドも、アンドレ・マルロー・バンドも、アドリブが変幻自在にきく、演奏能力の圧倒的に高い、他に例のないバンドだった。

問題は、中心に居るショーケンだった。

当時から、妙に大物ぶって、やっぱりだいぶ浮いていた。大物扱いを要求しているように見えて、ちょっと痛々しかった。

演歌パンクのような歌い方は、もう少し、方向を絞って声を出した方が、有効に思えて、新譜を聴いたり、テレビで見かけるたびに、私は、残念な思いを感じていた。我ながら、屈折していると思う。

ショーケンの音楽活動は、1990年くらいで、いったん、終わった。

その後、2003年に、一度、音楽活動を再開した。新曲はなく、ベスト盤と、数回のツアーが組まれた。

プロモーションでテレビに出てきたショーケンは、相当にひどかった。歌っても裏声ばかりで、まともに声は出ていなかった。人さまからお金をとれるレベルではなかったと思う。

   ↑  2003年のテレビ出演。豪華なバックメンバー

あまりにもあんまりだった。

本人の様子もおかしかった。会話も成り立っていなかった。それなのに、ショーケン本人は、自信満々だった。正直、病気を患っているように見えた。

一体、あれは何だったのだろうか。晩年や没後に出た当人の本や他の人の書いた本にも、2003年が何だったのか、明らかにしたものはなかった。だから、今でも謎だ。

80年半ばの頃、ショーケンを良いと言っていた人たちは、音楽活動を再開したショーケンについては、口を噤んでいた。

2010年以降も自信満々なのだった


それから10年間、ショーケンは音楽活動から遠ざかり、2010年からまた音楽活動を再再開して、亡くなるまで、続けた。その時はセルフカバーのベストのようなアルバムと、最後の最後に、自身が作詞作曲した3曲入りのシングルが出た。そして、亡くなってから、ライブアルバムが出た。

    ↑  2017年のライブ

この最後の時期にショーケンを音楽的に支えたのは、往年のメンバーではなく、若い人達だったが、その中にその後めぼしい活躍をした人はいないような気がする。って、失礼だなあ。

この再再開した時期も、ショーケンの声の調子は、ひどかった。2003年の時よりは少し声が出ていたが、まともなレベルには達していなかったと思う。

それなのに、本人はやけに自身満々で、他人、特に若い人に厳しいのだった。なんで自信があったのだろうか? そういう姿を見るにつけ、悲しくなった。

本人が亡くなってしまってから、闘病中だったことが明らかにされた。さかのぼって見直すと、晩年の音楽活動に対する評価も少し高くなるが、弾けもしないギターを抱えてのライブは、不自然で、やっぱりあんまりだったと思う。

この頃のショーケンに対して、あんまり誰も論評していない。提灯記事はあったけど、まともな批評は見たことがない。褒めなくてもいいから、ちゃんと批評して欲しかったが、その対象にもあがらなかったのかも知れない。

せめて役者としても、矢作俊彦原作のその後の『傷だらけの天使』の映画化と『いつかギラギラする日』の続編くらいは実現して欲しかったと思う。返す返すも残念だ。

しかし、こんなにボロクソに書くと、熱狂的なファンに怒られるかも知れない。ここに書いたのは、あくまでも私の意見だし、ショーケンが死んで5年も経つのに、私はまだ諦めきれないのだ。しつこいなあ。

  ↑   1980年頃のリハーサル音源 歌が一番ロックしていた頃







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?