実際に書いているとそれは記憶のようでもあり書きながら捏造しているようでもある高校時代の記憶 「アキラのこと」
(上に貼り付けたのは、のん主演の映画『さかなの子』のワンカット。下に続く文章とはほぼ無関係だ。ただ単に学ランを着ている人が映っているから引用したが、この写真の学ランは、短ランと呼ばれるもので、私が高校時代には、まだ存在していなかった。)
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昔のことだ。高校一年の夏だ。キャパ500人の施設にコンサートを見に行った。私にとって生まれて初めて行くコンサートだった。
チケット代は1500円か、1800円だったと思う。特に行きたくて行ったわけではなく、同級生に切符を売りつけられたのだ。
私の田舎にロック・バンドが来ることなどなかったから、貴重な機会だと思って、買ったのだった。それに、その時、偶然、お金も持っていたのだ。
私に切符を売りつけた同級生は、私と同じ男子高校の一年だったが、楽器をやっていて、かなり年上の人達とバンドも組んでいた。働いている年上の彼女までいて、ちょっと別格の奴だった。
そのコンサートは、そいつが彼女と一緒に行く予定だったらしいが、行けなくなったからと、私に売りつけたのだった。
当時の私は、誰彼なく声をかけて、ロックやフォークのレコードを持っている人がいたら、貸してもらって、手当たり次第、聴いていた。そんなだったから、ロック好き、音楽好きとみなされ、チケットを売ろうと狙われたのだと思う。
今考えたら、当時の私もかなり変な奴だ。
同級生は、もう一枚のチケットも誰かに売ると言っていたが、誰に売ったのか、私は会場に行くまで知らなかった。
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夏だったから、コンサート当日は、私はサンダル履きで、GパンにTシャツかなんかだったと思う。
それにGジャンを片手に持っていた。Gジャンは、ボタンのかかるポケットがあったので、その頃は、財布や貴重品を入れるためのカバンみたいに使っていた。多分、暑いから、着ないで持ち歩いていたはずだ。
そして、当時の私は、肩にかかるほどの長髪ではないが、両耳が隠れるよりずっと長く髪の毛を伸ばしていた。
会場に着いたら、なんだか様子が違っていた。何かが変なのだ。しかし、生まれて初めてのコンサートだし、一人だったし、緊張していて、私は何が変なのかわからなかった。
切符を切る人が、君は大丈夫か、みたいなことを言ったので、私はチケットがニセモノだったのか、とか思って、パニックになってしまった。
その頃のチケットは、色画用紙に一色で印刷された安っぽいものばかりだった。その日のチケットもそんなものだったから、自分でもニセモノのような気がしていたのだ。
それに、友達の家に行くから晩御飯はいらないと嘘を言って、家を出てきていたから、その時点で既に気持ちの余裕がなかった。受付で何か言われたものだから、余計に舞い上がってしまって、周囲の様子など目に入らなかった。
後から、受付の人は私を心配してくれたのだとわかったが、その時はそんなこと、わかりようもなかった。
私は自分の座席につくよりも先に、お前みたいのが何しにきたんだと、今でいうツッパリ連中数人に囲まれてしまった。そういう連中が来るコンサートだったのだ。
周囲を見たら、私のような普通の格好をしている者はほとんどいなかった。私をとり囲んでいる奴らは、つなぎとかを着て、額に鉢巻をしていた。しかも地下足袋とか長靴を履いていた。普段着なのは、私と、もっと年上の大人に見える人たちだけだった。
私はヘタレだったから、その時点で泣きそうになって何も言えなくなってしまった。
そこに割って入ってきたのが、高校の同じクラスのアキラだった。アキラもやっぱりツッパリの一人で、同じクラスだったが、それまで私は口をきいたことがなかった。アキラも私と同じ奴から、チケットを売りつけられて、会場に来ていたのだ。
ただしアキラの場合は、もともとこのコンサートに来たかったのだが、チケットが取れなかったのだ。そんなだからアキラもリーゼントにして、真っ白のつなぎを着ていた。どっかのバイク屋の新人バイトみたいに見えた。
なにがどうなってその場が収まったのか、もう憶えていないが、アキラに助けられて、私は解放されたのだった。その後は、座席にはいかず、会場の一番後ろに立って、アキラと並んでコンサートを観た。
演奏が始まったら、音響はひどいし、最初から客は総立ちで騒ぐし、お祭りのようで、曲を聴くなんて状況ではなかった。ただただうるさいのだ。
私はぜんぜん乗れなかったし、興奮もしなかった。居心地が悪くて、そのうち具合が悪くなってきた。ゲロを吐きそうになったのだ。私は小さい頃から、ストレスを感じると、すぐにゲロを吐く人だった。
コンサートが始まって30分もしていなかったが、アキラには悪かったけど、私は帰ることにした。
建物の外に出て、物陰で、一回、ゲロを吐いたらスッキリした。
お腹が減ったので、まだギリギリ開いていた団子屋で醤油団子を3本だか5本を買って、近くの河原に行って食べた。晩御飯替わりだ。
頭の中で、「ドンビャクショーめ、みんなぶっ殺してやる!」とか、ブツブツ恨み言をつぶやいていた。要するに負け犬の遠吠えだ。情けない高校一年生だった。
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次の日、学校でアキラに会ったら、やたらと興奮していた。身振り手振りを交えて、昨日のコンサートを再現して見せてくれた。それからちょっとだけアキラとの付き合いが始まった。
当時のツッパリは、マンガの『嗚呼!!花の応援団』の影響下にあったので、長い学生服がはやっていた。アキラも襟の高い中ランを着ていた。長ランを着ている者はいなかったと思う。多分、コートみたいに長いから、動きづらいから、中ランが選ばれていたような気がする。
私は履いたことがないが、ボンタンという腿の辺りが膨れて、膝下がすぼんでいるズボンは、既製品が安く買えたので、五割くらいの生徒が履いていたような気がする。ベルトは、白い細いのを合わせていた人が多かった。
だから、注文して作った中ランと、ボンタンの組み合わせが、もっとも理想とされていた気がする。
アキラの中ランもけっこう凝っていた。確か真っ赤な裏地に、何か刺繡がしてあった。刺繍が何だったのかは、憶えていない。内ポケットに、甘い香りの匂い袋を入れていた。よくわからないが、そういうのが流行っていたのだ。
アキラのその中ランを、私は褒めた。丁寧に作られたもので、しっかり作ってあるなあ、と感激したのだ。でも、何の刺繍だったか憶えていないし、テキトーなことを言ったのだと思う。それに自分で着たいとは思わなかった。
ところがアキラは私に、中ランを仕立てた洋服屋を教えたがった。紹介してやるからお前も作れと言うのだった。私はとてもじゃないが、中ランなんか作りたくもないし、着たくもなかった。そんなお金もなかった。最低でも3万円が必要だったと思う。
アキラはバイトをして、中ランを作る金を作ったのだった。バイト先は建設現場だ。アキラの実家が工務店で、父親が親方だったような気がする。その関係でバイトができたのだ。
アキラは私にもそのバイトを紹介してくれると言う。私はひ弱だった。肉体労働なんて自信がなかったし、なによりやりたくなかった。それに学校はどうしたらいいのだと聞くと、そんなの休めばいいと、へらへらと言う。自分は夏休みや春休みにバイトをしくせにだ。
アキラは、中学三年の夏休みと春休みにバイトをして、そのお金で中ランを作って、高校の新学期に合わせたのだと言う。私はていねいに断ったのだが、アキラはその後も、何度も蒸し返した気がする。
当時の私は、夕刊配達のアルバイトを始めていた。たまたま配達区域の大半が商店街だったので、すごく楽だった。同じ部数なら、住宅地では90分かかるところを、間口が並んでいる商店街は30分で済んだ。そのお金で、好きなレコードや本やマンガを買っていた。だから洋服なんかに使うお金はなかったのだ。
同じクラスの菊池君も、中ランを着ていた。やっぱり真っ赤な裏地に、真っ白の薔薇の刺繡をしていた。背中に大きいのが一輪と、小さいバラが、左右の胸あたりに一輪ずつあった。アキラの刺繍は憶えていないが、なぜかこっちはしっかりと記憶している。
菊池君は、ひょろっと背の高い痩せたい色白のやつで、色素が足りないから、染めなくても髪の毛が茶色かった。菊池君は、1年の3学期の途中に退学になった。他校生と暴力事件を起こしたとかいう理由だった。それっきり会っていない。
菊池君は、うちの高校は退学になったけど、喧嘩相手の高校に転入したという噂だった。その頃、そういうハナシはいくつもあった。というより、うちの高校を退学になった学生を受け入れる学校が、お定まりのコースのように存在していたのだ。
上の学年の人達の中ランの裏地は、花札だったり、和柄が多かったが、私の学年には自由な発想で作っていた人が多かったと思う。といってもそんなにみんなが着ていたわけではない。1学年に十数人程度だったと思う。
畠山君の学生服の裏地は、バーバリだった。父親のバーバリのコートの裏地を使って、学生服に縫ってもらったのだ。畠山君は、中ランなんかかっこ悪くて、着られるかと豪語していた。
当時の私はバーバリなんで言われても、なんのことかわからなかった。畠山君は不良だったけど、つっぱりファッションには興味がなくて、独特の渋いスタイルを追求していた。
普段でもハンチングやボルサリーノを被っていた。畠山君は、私の中学校の一年先輩だった。高校受験に失敗して、一浪してからここの高校に入って来ていた。ハンサムな男で、中学校の頃から、女の子にとんでもなくもてていた。本人は多分、アラン・ドロンを意識していたのだと思う。
ただ喧嘩っ早い人で、高校では何度か暴力事件を起こして停学になり、最後は、ダイエーでGパンを重ね着して万引きしようとした現行犯で捕まって、二学期の終わりころに退学になった。
その後、何度か街で遭遇したが、その都度、痩せて背が高く露出の多い美女と一緒に歩いていた。私なんかが声をかけるのを躊躇われるような美人ばかりだった。そのうちの一回は、黒人とのハーフのようなエキゾチックな女性だった。自分の住んでる地方都市に黒人のハーフがいたのかと驚いたのだった。
畠山君は、高校にはいかず大検を受けると言っていたが、最後に見かけたときは、夜の繁華街で呼び込みをやっていた。砕けた口調で話しかけてきて、まさかと驚いたのだが、スカーフを独特な形で首に結んでいて、相変わらずオシャレではあった。それが20代後半の頃だ。その後のことは、わからない。
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アキラの家の玄関の記憶がある。大きな家で、引き戸を開けると、玄関は畳3枚ぶんくらいの広いタタキになっていた。黒とか白とか小豆色とか茶色の小石を埋め込んであるタタキだった。
上がり框には、目隠しなのか、大きな切り株をスライスした衝立があった。ニスが塗ってあって、てかてかに光っていた。その手前の床には、クマの毛皮が敷いてあり、壁には何かの剥製があった。
家の中には入らず、玄関でアキラと立ち話をしたのだった。その時、アキラは髪の毛を茶色に染めていた。
どうしてアキラの家の玄関にいたのかも覚えていないし、アキラの家がどこにあったのかも、ぼやけている。商店街にあった気がするのだが、よく思いだせない。
アキラはツッパリだけどオシャレなやつだった。当時のツッパリには、リーゼントや額の左右の生え際に剃り込みを入れるのが流行っていた。が、アキラは結構長めの髪で、後頭部は刈り上げて、前髪は左右のどちらかに流していた。その前髪は、いざという時は、ポマードで固めてリーゼントにするのだった。
今思うと、アキラの髪型は、もみあげもなくしていたし、その後に流行ったテクノカットに近かった気がする。アキラは、自宅の近くの美容院で月に一回、髪の毛を切っていた。床屋じゃなくって、美容院だと言っていた。
その後、アキラとは、近所の大学の学園祭に一緒に行った。「紫」が来るというので、チケットもないのに、観に行こうとしたのだ。
沖縄のすごいハードロックバンドだという触れ込みで、それならば絶対に見なければと思ったのだ。そのときは、学園祭だから、チケットなんか必要ないと勘違いしていた気がする。
学園祭は賑やかだった。いくつものテントが張られていて、食べ物の屋台も出ていた。アキラは焼きそばを買って食ったり、女子大生にガンガン話しかけたり、積極的だった。私には、紫のことしか頭になくて、女の人に話しかけるという発想が、まだあんまりなかった。
野外にステージが組まれ、バンドが演奏をしていた。私達はそこで待っていたのだが、紫は出てこなかった。演奏していたバンドは、学生のアマチュアバンドで、紫は建物の中の講堂かなんかで、演奏したと、後になって知った。
私の兄だったか、兄の友達が、チケットを買って、紫のステージを見ていたのだ。そのハナシによると、オリジナル曲は少なく、ディープ・パープルのコピー曲の方が多かったという。行かなくてもよかったな、と思ったことを憶えている。当時は、カバーとは言わず、コピーと言っていた。
それからすぐに、アキラが退学になった。中型バイクの無免許運転で警察に捕まったのが理由だったが、その前にも何かで停学になっていた。二回目か三回目の停学処分だったので、自動的に退学になったのだと聞いた。
思い出した。
アキラが退学になった時に、住所録の住所を見て、繁華街の裏にあるアキラの家に尋ねていったのだ。それがアキラの家の玄関の記憶だ。
アキラは、学校を首になって自由になったから、髪の毛を茶色に染めたと言っていた。父親のところで働くか、別の高校に転入するかもしれないと言っていた。
その後、アキラとは一度も会っていない。3、4カ月の付き合いだった。狭い街だったが、どこかですれ違うこともなかった。私とアキラの行動範囲は、高校の教室しか重ならなかったのだ。
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