【考察】ブルアカ

こんにちは。
メインストーリーが一応の完結?となったので話したいことを少しだけ話します。”簡潔”にね!


ストーリー全体の構成は以下

Vol.1 対策委員会編
1章 対策委員会の奇妙な一日
2章 失ったもの、手放さなかったもの
Vol.2 時計じかけの花のパヴァーヌ編
1章 レトロチック・ロマン
2章 友情と勇気と光のロマン
Vol.3 エデン条約編
1章 補習授業、スタート!
2章 不可能な証明
3章 私たちの物語
4章 忘れられた神々のためのキリエ
Vol.4 カルバノグの兎編
1章 RABBIT小隊始動!
Final. あまねく奇跡の始発点編
1章 シャーレ奪還作戦
2章 虚妄のサンクトゥム攻略戦
3章 アトラ・ハシースの箱舟占領戦
4章 プレナパテス決戦


これらの中でも
Vol.2 時計じかけの花のパヴァーヌ編、Vol.3 エデン条約編
について話したいと思います。簡潔に。

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Vol.2 時計じかけの花のパヴァーヌ編

大雑把に言うと
ゲーム開発部 vs リオ
みたいな構図で話が進んでいくが、特にリオについて話したい。


リオは徹底して合理的な判断をしていく。
リオ自身も述べていた「トロッコ問題」。
リオは少数を切り捨ててでも多数を救うべきだとしてアリスを処分するという行動をとった。

これは明確に「功利主義」的な考え方。
最大多数の最大幸福とかいうあれ。

結論としてリオの行動は裏目に出てしまうわけで、つまりは功利主義的な考え方には不備があったという話になってくる。

功利主義の問題点、疑問として
・前提として幸福を計測可能なものとしているが本当にそう?
・判断を下すために必要な情報は十分かつ正しい?

みたいなものがある。

トロッコの先にいる5人を轢き殺すか1人を轢き殺すかという話で5:1だから1人の方を轢き殺そうというのは理解できなくはない。

でも、その5人がこれから100人を殺す殺人鬼かもしれないしその1人がこれから1000人救うような医者かもしれない。

こうなると、多くの人を救うのであれば1人の医者を助けるべきな気がするがトロッコの先にいる人の情報をこのようにあらかじめ知ることはできない。

トロッコ問題はあくまで思考実験だが、20世紀に実際に起こったフォード・ピント事件という例もある。
人間の価値を計測することができるという前提で話を進めるのは危ういし倫理的にも非難される。


ストーリーにおいてもリオの想定していなかった事態に陥り、むしろキヴォトスを危険に晒してしまう。

先生はリオに対し、「レバーを引く人が見落としたものがあるんじゃないのかな」「トロッコ問題、その質問自体が間違っている」と言う。

ストーリーも功利主義とそれに対する反論、という構造になっているわけだ。


つまり僕は
Vol.2 時計じかけの花のパヴァーヌ編では功利主義に対する反論が行われている
と考えている。


わけではない!!!!!!


というのも、先生はリオの功利主義的な選択、犠牲の少ない方を選ぶというやり方やその精神自体を否定しているわけではないと思う。

実際、「犠牲の少ない方を選ぼうとした」「それがリオの優しさなんだね」と話している。

ただ単に功利主義が悪いと言っているのではなく、功利主義の問題点について
「「「「「対話」」」」」
しようとしているのだ。

リオが失敗した理由は確かに功利主義的考え方の欠陥もある。

しかし最大の問題はアリスたちゲーム開発部やC&C、先生との対話を放棄し、ひとりで決断し行動してしまったことだ。
合理的に行動するリオが自らの限定合理性を認め、対話でその穴を埋めようとするのが大切と言う話。

エリートパニックという言葉がある。
災害時などに権力を持つ人が「一般人に情報を与えるとパニックを起こすのではないか」と考え、エリート自身がパニックを起こしてしまう
というものだ。

リオも「あなたには言ってもわからないでしょうけど」みたいなことを言っていたがこのような対話を放棄する姿勢が一番の問題だったと言える。

僕たちが花のパヴァーヌ編から得るべき学びは対話の姿勢ではないか。


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Vol.3 エデン条約編

これの噂を聞いてブルアカ を始めた先生も多いだろうエデン条約編。

僕がエデン条約編を読んで思い出したのは19世紀ロシアの話。
特に
ニヒリズム →  テロリズム
の流れ。
ナロードニキがアレクサンドル二世をテロにより暗殺した話だ。
このニヒリズムからテロリズムの流れがまさしくエデン条約編で描かれていたアリウススクワッドの行動そのまま。

アリウスの標語、「全ては虚しいものである」
これを教えたのはベアトリーチェで、彼女はアリウススクワッドにテロを起こさせた。
ニヒリズムとテロリズムの親和性を理解し利用したのだ。

物語は結局なんやかんやでパッピーエンドに向かうわけだが、この「なんやかんや」の部分において重要な役割を果たしたのがアズサであり、アズサの思想。


「たとえ全てが虚しいものだとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない」

エデン条約編はこの言葉に尽きる。
今を生きる僕たちはこのアズサの思想に学ぶべきな気がする。

アズサは単にニヒリズムを否定しているわけではない。ニヒリズムを認めた上で、「それでも、、、」という姿勢を示している。

近年インターネットの広がりに伴って集合知が蓄積され誰しもがそこにアクセスできるようになった。
我々はインターネットによって強制的に賢くなった。

19世紀ロシアの話に戻るが、ニヒリズムに陥り皇帝暗殺というテロ行為に走ったナロードニキはインテリゲンツィアと呼ばれる。
インテリゲンツィア。「インテリ」の語源。
つまり
インテリ  →   ニヒリズム  →   テロリズム
という構図。

情報があふれる21世紀における、その始まりの年の9月11日。対テロ戦争の幕開けとなった。

ニヒリズム  →   "アズサイズム"

を目指していきたい。

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ミカについて。
ミカはゲヘナに対して結構差別的な発言をしていたが、
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なんとなく、全体を通して先生は
Aという考え方にBという考え方をぶつけるのではなく、Aという考え方を認めた上でA'を提示するみたいな姿勢な気がして、そこがとても好きです。(カルバノグとかもそう)

討論じゃなくて対話する姿勢、実践するのむずいと思うけど私たちが先生から教わるべき”学び”のひとつだと思いますね。




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