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人はそもそも完璧だ

「磨けば光る逸材」「ダイヤの原石」などという言葉がある。

難しい数式を使いこなす小学生や、高度な運動技術をマスターした園児、聞いただけで楽器が弾ける子供など、自分にはない能力の片鱗を見たとき、その言葉が頭をよぎる。

息子たちにそんな片鱗を見たことはない。
長男には、自由帳にものすごく細かい迷路を何時間も休まず書く能力がある。
次男には、長男が叱られそうな雰囲気を敏感に感じ取って気配を消す能力がある。

能力には人それぞれ異なるタイプがある。万人受けするものもあれば、軽んじられるものまで。子供の頃でいえば読書と漫画、運動とゲーム。読書や運動は褒められ、漫画とゲームは叱られる。

長所は言い換えれば短所になり、逆も然り。
つまり言いたいのは、良いものと悪いものは誰が決めたのか、誰から見ての判断なのか、ということ。
漫画やゲームに感化され、救われてきた親にとってそれらは制限するものではなく、親子の交流の手段。運動によって辛い目にあってきた親はそれを子供に無理に薦めない。
得手不得手は誰にでもある。それは長所短所ではない。

「人はそもそも完璧ではない。」というけれど、私は人はそもそも完璧だと思う。完璧でないと完璧になろうとする。でもそこに明確なゴールはない。大谷翔平さんや木村拓哉さん、田中みな実さんや石原さとみさんがゴールではない。

「磨けば光る逸材」「ダイヤの原石」
つまり周りの石を砕いて砕いてダイヤだけになればいい。
それは努力や勉強をすることではない。条件や資格があるわけでもない。
ただ自分の不得手を認めて許すこと、ダイヤの歪さを唯一無二の完全体だと思うこと。
ダイヤを覆うただの石は、周囲の価値観や植え付けられた思い込みだから、内側から壊していけばいい。

石に向かって周りの人は攻撃をしてくる。「もっと正しくあるべきだ」「一致団結して立ち向かうべきだ」「目標を達成して前進するべきだ」
そう言われたとき、その石を守る為にバリケードを築くのではなく、自分のダイヤの硬さを信じてみるといい。
石は崩すときに痛みが伴う。でもその中には打たれても傷つかないダイヤが必ずある。

ダイヤだけになれたとき、他人の意見に傷つくことも左右されることもない。誰かに従うことも誰かを哀れに思うこともない。責めることも諦めることも許すことも教えることも育てることも何もない。
自分と同じように老若男女問わず、みんな完璧だから。




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