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魏志倭人伝には吉野ヶ里遺跡が書かれている

前回、邪馬台国の畿内説はかなり苦しいという話を書きました。
九州説を取るとして、邪馬台国は九州のどこだったか。
内陸説、東海岸説、これにも様々な説があります。

私が思うに、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を考えるとき、注意するべきは吉野ヶ里遺跡です。
単に大きい遺跡だからじゃないですよ。吉野ヶ里遺跡は、魏志倭人伝に書かれている(はずだ)からです。

1.奴国と吉野ケ里は近くて無視できない

ポイントは地形と距離。地形図を見ると、奴国があったとされる博多から吉野ヶ里までは、通れと言わんばかりのゆるやかな地形が続いています。障害物となる山は一つもなく(一番高いところでも標高が50メートル前後)大きな川もありません。

博多(奴国)から吉野ケ里まで歩くと

道のりは多く見積もっても50km。徒歩で1日半あればたどり着けます(健脚なら1日で行けたか? グーグルの地図では8時間46分になっていますが、現代の道なので…)
外国の使者が駐在していたと言う伊都国からでも70km、2日(奴国経由)あれば着きます。

弥生時代、すでに全国的な交易が行われていました。1日2日はさほど遠いとは言えないので、日常的に交流があったと考えるべきです。
魏人が倭国の情勢を書くにあたって「近くにあり、交流がある、かなりの大国家」を、見落とすことなどあるでしょうか?

ないですね。

外国人が自分で行かないとしても、倭人から情報が入るでしょう。
この時代、吉野ケ里には無視できないほど大きな国があった。
その事実から私は、魏志倭人伝の記述の中に吉野ケ里遺跡に相当する国家があると考えます。

2.吉野ヶ里は投馬国か邪馬台国か

あとは記述の中の、どの国が吉野ケ里を示しているかです。
書かれているのは
・「戸数や道里を詳しく書くことができる」女王国より北の国
・「遠く隔たり、詳しく知ることができない辺傍の国」
のどちらかです。

吉野ケ里の場合、距離と交通の便利さを考えれば、詳しく知らないわけがないです。明らかに「辺傍の国」ではないですね。

奴国までは確定という前提に立つと、残るのは不弥国、投馬国、邪馬台国の3つだけ。うち不弥国は規模が小さいので(千戸)、集落の規模を考えると投馬国(五万戸)か邪馬台国(七万戸)のどちらかが、吉野ヶ里遺跡に該当すると考えていいのではないでしょうか。

吉野ヶ里が邪馬台国なら、投馬国は小郡市、大刀洗町、久留米市あたりになるでしょうか。この周辺も、沢山の遺跡が出ているところです。

吉野ヶ里が投馬国なら、邪馬台国は別になります。
筑後川はかなり大きな川で、筑紫平野を分断しています。川を挟んでもう一つ大きな国家があっても不思議ではありません。筑後川を挟んで反対あたりに邪馬台国並の大型遺跡が出れば面白いですね(遺跡そのものは沢山ある)。

どちらであっても期待の持てる話で、今後の発掘に期待したいところです。

補遺

・水行二十日、などの距離は、九州説ではどうやっても説明できません。他の都市間の距離が里で表されているのに、ここだけ日数になっていることから、なにかの文言が混じったという説が、個人的には納得しやすいです。

・平野でつながったところは交通が容易です。逆に言えば「遠くて詳細がわからない国」は、山で隔てられるなど、交通が不便な場所だと考えられます。20国は筑紫平野の外、九州全域に点在していたのではないでしょうか。

・吉野ケ里近辺に邪馬台国がある場合、吉野ケ里から見て海は西側になります。つまり魏志倭人伝の終わりの方にある「女王国の東、海を渡ったところにまた国がある。みな倭種である」は辻褄があいません。
これについては、女王国(邪馬台国)そのものではなく「勢力圏から東」とでも読み替えるしかないでしょう。

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