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二宮翁夜話 巻之一、第十節 はじめから 無いと思えば 丸儲け

自分の勉強も兼ねて、二宮翁夜話についての不定期投稿。ニワカのやることなので、読み間違いなどありましたら、ご指摘いただけると助かります。

・最初に

明石家さんまさんの娘さんはIMALUさん。
その名前の元は「生きてるだけで丸儲け」だとさんまさんは言っていますが、お母さんの大竹しのぶさんは「今を生きる」の略だとおっしゃっているそうです。

・抄訳

「自分のものなど、もともと何も無い」
私の道を行おうとするものは、そう覚悟しなくてはならない。

私が全財産を投げ出して復興に尽くしたのも、釈迦がすべてを捨てて仏法を開いたのも、この一事を悟ったからである。

長短の差はあれ、人は必ず死ぬものである。そこで、
「人はいつ死んでもおかしくない」と覚悟しておくなら、一日生きたのは一日を儲けたことになり、ひと月生きればひと月を儲けたことになる。

同じように、わが身も家も、もともとないものだと覚悟しておくなら、手にするものはみな儲けだと言えるだろう。

「仮の身を もとのあるじに貸渡し 民安かれと 願うこの身ぞ」
と歌を詠んだが、もとのあるじとは天のことである。

自分の身体など、もともと無いようなもの。その身体を天の理にあずけ、世のため人のために尽くそうという覚悟の歌だ。
私の道を行うなら知っておかなければならない

・感想

最初に言い訳。
この節は、抄訳がかなり怪しいです。というのは、最初の部分の「私の道」が何なのか、ぱっとわからないのです。原文を直訳すると、
「子供が道を踏み外しても養育費はもどらない。天候が悪く田畑が不作になれば、肥料も種も無駄になる。これは私の道と同じである」
となるのですが、何がなんだか。

そこで後の文章の「もともと無いものと覚悟しておけば」の部分と一貫させることにして、原文に無い「自分のものなど何もない」と解釈しました。

以下感想。

「もともと無いものと覚悟しておけばよい」
という教えは、尊徳だけではなく、一昔前はよく見られた考え方です。

自分やモノに対するこだわりを持たず、自由になるという意味で、使われたものです。ただ一歩間違うと、
「どうせ死ぬんでしょ」
という虚無主義だったり、
「どうせ死ぬんだから!」
という刹那主義になりかねないわけで。

尊徳の言葉の中にある
「一日生きれば一日の儲け、一月生きれば一月の儲け。なにもないと思えば何でも儲け」
という考え方は、俗なようでいて刹那主義や虚無主義になるのを防いでくれる方法ではないかと思います。

・原文

翁曰、 親の子における、農の田畑に於る、我道に同じ、 親の子を育(ソダツ)る無頼(ブライ)となるといへども、養育料を如何せん、農の田を作る、凶歳なれば、肥代(コヤシダイ)も仕付料も皆損なり、夫(それ)此道を行はんと欲する者は此理を弁(ワキマ)ふべし、吾始(ハジメ)て、小田原より下野の物井の陣屋に至る、己が家を潰して、四千石の興復一途(いちず)に身を委(ユダ)ねたり、是則(これすなわち)此道理に基けるなり、 夫(それ)釈(シヤク)氏は、生者必滅(セウシヤヒツメツ)の理を悟り、 此理を拡充して自ら家を捨(ステ)、妻子を捨て、今日の如き道を弘めたり、只此一理を悟るのみ、夫(それ)人、生れ出(いで)たる以上は死する事のあるは必定(ひつじょう)なり、長生といへども、百年を越(コユ)るは稀なり、限りのしれたる事なり、 夭(ワカジニ)と云(いう)も寿(ナガイキ)と云(いう)も、 実は毛弗の論なり、譬(タトヘ)ば蝋燭に大中小あるに同じ、 大蝋といへども、火の付(つき)たる以上は四時間か五時間なるべし、 然れば人と生れ出たるうへは、必(かならズ)死する物と覚悟する時は、一日活(イキ)れば則(すなわち)一日の儲(マフケ)、一年活(イキ)れば一年の益也、故に本来我身もなき物、我家もなき物と覚悟すれば跡は百事百般皆儲なり、予が歌に「かりの身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふ此身ぞ」、 夫(それ)此世は、 我(われ)人(ひと)ともに僅(ハツカ)の間の仮の世なれば、 此身は、かりの身なる事明らかなり、 元のあるじとは天を云(いう)、このかりの身を我身と思はず、生涯一途(ヅ)に世のため人のためのみを思ひ、 国のため天下の爲に益ある事のみを勤め、一人たりとも一家たりとも一村たりとも、困窮を免(マヌカ)れ富有になり、土地開け道(ミチ)橋(ハシ)整ひ安穏に渡世の出来るやうにと、夫(それ)のみを日々の勤とし、朝夕願ひ祈りて、おこたらざる我(わが)此身である、といふ心にてよめる也、是(コレ)我(ワレ)畢生(ヒツセイ)の覚悟なり、我道(ワガミチ)を行はんと思ふ者はしらずんばあるべからず

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