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魏志倭人伝を地図に描いたら、邪馬台国の畿内説は無理だと思った件

邪馬台国はどこにあったのか。今でも度々問題になるテーマですね。私のような歴史素人でも気になります。

主な候補地は九州説と、奈良を中心とした畿内説の2つ。
私は奈良生まれの奈良育ちですが、九州説を支持。
ちなみに奈良県民は日本で一番、愛郷心が薄いらしいです(笑)。

さて本題。
魏志倭人伝で邪馬台国の位置を考えるとき、邪馬台国「まで」の旅程を問題にすることが多いですね。しかし記述どおりに移動すると、はるか南方海上になってしまうといいます。
距離か方角、またはその両方が間違っていることは確実なので、この記述をもとに邪馬台国の場所を推測するのは無意味です。

ふと思いついて、邪馬台国「から」の記述を調べてみました。
とくに重視したのは、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國(以下20国続く)」
(女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。次に斯馬国…以下20国)
という記述。案外重要なのではないかと思い、地図にしてみると、かなり面白い地図になりました。

1.邪馬台国のあとの国々

魏志倭人伝での、邪馬台国後の記述。
「女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。次に斯馬国があり、次に己百支国があり、次に伊邪国があり、次に都支国があり、次に弥奴国があり、次に好古都国があり、次に不呼国があり、次に姐奴国があり、次に対蘇国があり、次に蘇奴国があり、次に呼邑国があり、次に華奴蘇奴国があり、次に鬼国があり、次に為吾国があり、次に鬼奴国があり、次に邪馬国があり、次に躬臣国があり、次に巴利国があり、次に支惟国があり、次に烏奴国があり、次に奴国(重出、また□奴国の誤脱か)がある。これが女王国の境界の尽きるところである。
その南に狗奴国があり、男を王とする。その狗古智卑狗(くこちひく。菊池彦か)がある。女王に属さない。(以上、ウィキペディアの引用)」

邪馬台国以降の21国について「それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない」と言っているので、魏の使者からみて邪馬台国より遠いか、交通の不便なところだと考えられます。
また最後に「これが女王国の境界の尽きるところである」とあるので、この20国までが女王の支配領域。領域外には狗奴国があります。

では、この国々を九州説・畿内説にしたがって地図にしてみましょう。

2.まずは九州説の地図

奴国までの場所は、候補地が固まってきているらしいので、そのまま記入しました。

対馬国 → 対馬
一支国 → 壱岐島
末廬国 → 長崎県松浦市
伊都国 → 福岡県糸島市
奴国  → 福岡県博多市

不弥国はいくつかの説があり、はっきりした場所はわかりません。奴国より東という記述はあるので、文字の大きさの都合で地形を無視して配置しました。
投馬国についてはそこから南へ水行二十日となっています。今回は旅程は間違っているものとして方位だけを信じ、不弥国から南に配置(同じく地形は無視)
その南に、邪馬台国を配置します。

邪馬台国よりもあと、斯馬国など「辺傍の国」20国。
「女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり…」とあることから、邪馬台国の北側ではありません。東や西の可能性もありますが、今回は南側にまとめて配置しました。
さらに南に狗奴国を置きました。
こんな地図になりました。

九州説の地図


3.畿内説の地図

奴国まではそのまま。不弥国は奴国の東に百里(伊都国→奴国と同じ距離)で、九州説よりも本州近くに配置しました。
投馬国は不弥国から南となっていますが、畿内説の都合上、方位の記述が間違っているものとして考えます。畿内に向かって水行二十日、瀬戸内か日本海を行くものとして、中国、四国地方のどこかという位置づけ。広く円を描きました。
邪馬台国は説の通り畿内に置きました。斯馬国など20カ国は、邪馬台国よりも遠いところとして、中部より向こうに配置しています。

畿内説の地図と疑問


4.畿内説の地図が持つ不自然さ

では、地図をもう一度見ましょう。
一見してわかるのは、畿内説の不自然さです。

・中国・四国地方がガラ空き
畿内説に従って国を配置すると、九州から畿内まで500kmの間に、投馬国一つしかないことになってしまいます。末廬国から奴国までの国が数十kmの間隔で並んでいることを考えると、距離が開きすぎでしょう。
この間には国が無かったのでしょうか?

発掘調査の結果では、中国・四国地方には複数の弥生時代の遺跡が存在しています。畿内説であればここも支配領域ですので、これら中国・四国の国について、もっと記述がなくてはいけません。

なお、単に省略したということは考えられません。邪馬台国よりも遠い21国の名前は書いているのですから。

・港湾都市がない

また、邪馬台国への道程で水行があるのに、港となる国もありません。邪馬台国が多くの国を支配し、水行で行き来していたなら、大阪府の難波のような場所に、港として栄える国があるはずです。

・九州の中部・南部がガラ空き
畿内説では、九州で記述される国は末盧國、伊都国、奴国、不弥国の4国だけ。すべて北部の海岸沿いで、中部、南部には全く触れていません。

有名な吉野ヶ里遺跡を含め、同時代の遺跡は九州全域に数多く存在しています。
500km先の邪馬台国や、それより遠い21国に言及しつつ、わずか数十km、しかも陸続きに存在する国について全く触れないのは不自然です。
仮に女王国に属さないとしても、存在を知っていれば記述するでしょう。それは女王に属さない遠方の国、狗奴国を記述していることからわかります。

5.九州説でいかがでしょうか?

というわけで、畿内説の地図には無理が多く、かなり苦しいのではないかというのが、私の結論です。

では畿内にある纒向遺跡は何だ?
といわれれば、別の大型国家だろうと思います。当時の倭国に大きな国が2つ以上あっても不思議ではありませんので。

次回は、邪馬台国は九州のどこか? というテーマで書きます。


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