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雨の隘路で綾取りできるかな

関東もついに梅雨入りしました。

ここ数年までは正直、梅雨の季節がすきじゃありませんでした。

しかし、仕事で体調を崩して休職することになったあの夏前のわたしを、誰よりも受け入れてくれていたのは、雨と紫陽花でした。そこから、わたしはこの季節がすき、というか、安心するようになりました。

傘を差すという行為は、どこか排他的です。

自分自身か、できても、自分とだれかあともう一人しか守れません。その世界の狭さが、わたしにとっては心地よかったのです。

わたしがすきなひと、大事なひとたち全部を大切にしようとして、できなくて、落ち込んで、気に病んで、結局自分がだめになって。動けなくなった体をベッドに横たえて、わたしは確かに自分が手を伸ばせる範囲を、守れる限界点を、唯一動かせる脳味噌で思い知ったのです。

傘の柄を握って、もう片方の自由な手で、何をとるか、というのは不自由なようでいて、無限の選択肢があるのです。その無限の選択肢のひとつに、愛情をいつもより、すこしだけ、静かにグラスに水をそそぐように、とぷとぷとぷと与えつづけるのです。梅雨とは、そういう季節だと思っています。

いつもの道が、町が、雨に濡れ、姿をかえる。

雨音と会話しながら、あみだくじをするように水たまりを跳ねる。

そこで描かれたものはきっと、この雨がやんだころに、わかるのでしょう。





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