祖父の他界
祖父が他界した。
3連休の最後に葬儀がある。1年前からの計画を崩し、キャンセル料や取り消し・譲渡不可のチケットを無駄にして、更に交通費を数万払って帰省して、香典を持って、手伝いやら参列やらをすることにした。火葬は朝早くからであり、僻地のため前泊も必須だ。厄日での葬儀となる。
祖父が他界した。
ここ数年はアルツハイマーで施設に入っていた。
特にこの3年はコロナ禍もあり、面会はあまりできなかった。何度か玄関で顔を見て挨拶をすることができた、そんな程度だったが、顔が見られて嬉しかった。
祖父が他界した。
急に容体が悪化して、1日と持たずに逝ったようだ。
高齢ではあったが、ガンや心臓病などではなかった。意識が混濁していた間、苦しまずに逝けたのだろうか。
祖父が他界した。
零細農家が細々と集まる地域の長男家系で、努力と忍耐の人だったと聞く。倹約家で、勉強熱心で社交的。三大公社を定年まで勤め上げた後、50代からは兼業だった農業に本格的に精を出していた。幼少の頃は父に連れられて僕もよく手伝いに行った。母は、朝早くに起きておにぎりを握っていた。箱を折ったり荷物を運んだり、虫を捕まえて遊んだり。一日中汗と泥まみれになった。
祖父が他界した。
祖母を在宅介護の末に亡くしてから数年経つと、アルツハイマーになった。三男である父が最も自宅からも近く、母も献身的なので、うちへ来たらどうかと進言した様だったが、三男のくせに偉そうな事を言うなと怒り、一蹴したそうだ。変わらず、農業の手伝いは父しかせず、急に呼び付けられていたそうだ。
祖父が他界した。
僕は6番目の孫で、5番目は1ヶ月違いの女の子だった。末娘の娘孫を痛く可愛がり、2時間の道のりも苦にせずよく行事に来たそうだ。僕や弟の運動会には来た事が無い。1番目の孫は長男の息子で、別格に扱われていたが、本人は優しく面倒見のい良いお兄ちゃんだった。僕は毎盆・毎正月、遊んでもらえるのが楽しみで仕方がなかった。代々、名に漢字を一文字継ぐのは俺で終わりだ、とよく言っていた。
祖父が他界した。
曽祖父は生前、傍若無人だった様だ。代々の土地を売り払ったり、祖父が仕事でいぬ間に祖母をいじめていたそうだ。憤慨する父に、そんな奴の肖像は下げて仕舞えばいいのではないか、もう昔の人なのだから、と言うと、黙って俯いた。
祖父が他界した。
「じいちゃんち」の田んぼや畑は、後に祖父自身が買い戻した土地が多かった。かつてはある程度まとまっていたのに、バラバラに買い集めたものだから、晩年は庭周辺以外は放棄され、もはやどの土地が持ちものかもわからず、現地の境界線も曖昧な様だ。
祖父が他界した。
遺産の事で兄弟が揉めている様だ。家の政を納めた長男、手伝いはしないがいつも顔は出していた次男、こき使われた三男、可愛がられた末娘。皆、相続対策や負の遺産のことよりも、取り分や決め方で躓いているまま、祖父が逝去した。次男は新聞奨学生から有名大を自力で出て、税に詳しい。遺書が無い場合の法定相続人と割合の都合は熟知しているのだろう。他の兄弟は色々と講釈がある様だが、高度経済成長に乗っていた労働者であって、調べ物は苦手な様だ。
祖父が他界した。
僕の父は勤勉で不器用な人だ。普通科の高校へ進学しようとすると、祖父に問答無用で工業高校へ入れさせてられたそうだ。高校ではずっと上位であり、当然、近隣の工業大学への進学の話があったのだが、祖父に行かせて貰えないことがわかると、黙って就職して、それから勤続49年。出世は望まず、安寧を求めて趣味に生きてきた。タバコさえ吸わず、堅すぎるほどだが、優しい父の愛をたくさん受け、感謝している。
祖父が他界した。
三大公社で万年平社員を自ら謳歌した父は、息子たちは大学に行かせてやりたいと強く考えていた。僕は勉強もろくにせず部活に精を出したが、最後の大会は、大会中の事故で、途中で中止となった。浪人させてもらい、東京の低偏差値の私大へ進んだ。
祖父が他界した。
僕は、就職で逆転するためのロジックを3年間積み上げた。入社はうまくいったのだが、初配属は希望とかけ離れていた。割合、祖父の家と近い地方都市であった。祖父hr社名や配属など事実だけ伝えると、痛く喜んでくれた。たまに顔を出すからと言うと、余計喜んだ。
祖父が他界した。
祖父の家に何度かフラッと立ち寄り、つまらない差し入れを買って世間話をした。話好きの祖父は笑顔であれこれと会話をしてくれた。同じ県人であっても祖父の訛りは強く、耳も遠いため、半分くらいは推測であった。結局、数十年続いていたそうな初任地の拠点は配属後2年も立たずお取り潰しとなり、僕も転勤となった。新人でお荷物であった僕の配属の意味は、後に理解できた。
祖父が他界した。
一度、祖父が帰り際に「お前の父さんに100万貸してくれと言われて貸したのだ」と言われた。僕には見せない、少し迷った表情だった。おそらく、浪人したせいで学資保険が足らなかったのだろう。「知らなかった、じいちゃん、どうもありがとうございます」と驚いて伝えた。帰り際、「さっきの話は、父さんには言わないでおいてくれ」と、また、見たことがない神妙な面持ちで言った。「わかった、約束します、本当にありがとう」と言った。当然、約束は未だ守っている。これからも。
祖父が他界した。
葬儀の段取りを考える際、長男家系の長男であり、振る舞いもその通りであった叔父が「誰か喪主をやりたい奴はいるか」と発言したそうだ。発言の意図まではわからないが、父は憤慨したそうで、直接のやり取りを拒んだまま葬儀を迎えることになりそうだ。
祖父が他界した。
父は今春、嘱託雇用も終えて完全にリタイアした。年金受給までに食べていくだけの蓄えも持ち家もあるが、子供に遺産が残せるのか、と、今になって心配している様だ。ハッキリと「最初からアテにしていないので、介護のアテにもしないでね」と家族の会話で冗談半分に盛り上がった。僕たちは各々の人生を、父のおかげで生きている。未だ元気なうちに、父には今まで以上に自分の好きにして欲しいと伝えた。30代の僕の等身大の発言であり、毎年、一度以上は帰省し、家族関係は良好だ。
祖父が他界した。
情報化社会の真ん中の世代で、零細農家の本家から離れた地方都市で育ち、大学へ行かせてもらい、20代は仕事に打ち込んできた僕。曽祖父、祖父、叔父、叔母、そして父、支えた母のことは、歳を重ねれば重ねるほど、理解できないことが多い。孫向けの、キレイな側面だけ虚像があったこともわかってきた。けれども、合理性だとか、情報だとか、地域や世代だけではない、絶対的な指針や発想というか、尊重すべき順序が異なっている様に感じる。僕は三十路を超えてやっと、尊重することが大事なのだとわかった。ただ、田舎の長男家系で尊重されるべきことは、家長の意向と長男の行末であることは、幼心にも知っていた。
祖父が他界した。
長男を守ることは、家を守ることだ。家を守ることは生業を守ることであり、そこに生まれ、暮らす人々が永く生活し続けるためだ。僕が見てきた、数1百年守られたあの家には、出入りこそあれどもう数年誰もいない。そして登記上でも空き家となる。
祖父が他界した。
じいちゃん、今まで本当にお疲れ様。どうもありがとう。僕が身に染みて、生き様・死に様の重要性が理解できるのは、もう少し後になるかもしれない。けれども、じいちゃんが死なないとわからなかったこと、気づけなかったことが少しわかった気がします。
祖父が他界した。
今僕は、実家でも自宅でも、もちろん職場でもない、奇しくも、豪農の古民家を移築した宿に泊まっている。昨晩は一睡もしなかったが、暫く前からの予約だったので、遠路はるばる車を走らせた。食事を摂り入浴すると、ぐっすりと寝たのだが、3時間ほどで目が覚めた。再び入浴し、火の消えた大きな囲炉裏の前で、今度は誰でもない、自分にあてた瑣末な手記を走らせている。明後日の目的地のための導入だったのだが、葬儀につき、明日には東京へ戻って、新幹線へ乗り換え、実家へ戻る。
皆で祖父の死を悼み、葬儀が恙無く終わることを願っている。
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