いつか来た道? 就職氷河期世代支援

毎日新聞2020年6月24日 東京朝刊
(毎日新聞の記事です。有料記事ですのでWebでは全文読めない方もおられると思いますがこのまま書かせていただきます)

いつもこのような「就職氷河期世代の支援はどうあるべきか」という記事を読むと既視感を感じます。

低スキル、スキル向上/再教育、勤続年数の少なさ、再チャレンジ、伴走型支援、氷河期世代が及ぼす社会保障問題、連携、連帯、団結、仲間を作る、声を上げる・・・この記事に限らず、就職氷河期世代の支援はどうあるべきかと報じる多くの記事は、既に語り尽くされた、出尽くした感のある言葉が並びます。

そして、最後は当事者が頑張りましょう! さぁ挑戦だ! 走れ! というところへ帰結してしまいます。

もう一つ気になるのは・・・氷河期非正規に対して繰り返される評価です。

あれもこれもない? 氷河期非正規

氷河期非正規--皆さんはどんなイメージを持つでしょうか。

識者の言葉や記事から出てくる氷河期非正規は、「低スキル」「就業期間の短さや職歴の多さ」「社会人としての経験の少なさ」など。社会人として、会社に適合できない、または無力な労働者像として語られます。いい歳をした労働者として、それに見合ったスキルや経験などが・・・あれもない、これもないと、ないない尽くし。おそらく、社会や世間における氷河期非正規に対するイメージも大差無いのではないでしょうか。

支援はどうあるべきかと、一見手を差し伸べるような議題設定をしつつ、なんとなく、識者の言葉や記事が、ないない尽くし労働者像、そして奮起を促す、こうした空気感をじんわりと作り出していないか、と思うのです。

その中に、少しばかり氷河期世代当事者だけの責任ではないのだ、という言葉を入れたところで、こんな、ないない尽くしの労働者として書かれる世代を「よし!氷河期世代を氷河期非正規をわが社で採用しよう!」と思う企業や採用担当がどれだけあるでしょうか。

そんなに私たち氷河期非正規はスキルも、経験も知識も、ないない尽くしなのでしょうか?

正社員と机を並べ、同じラインの仕事を担当している非正規も多くいます。時には正社員に代わって対応することもあります。それでも低スキル、スキル向上と鞭を打たれ、もっともっと、まだ足りない、まだ足りない、と走らなくてはならないのでしょうか。

こうして、いつまでも就職氷河期世代支援がどうあるべきかと、机の上で、紙の上で議論を続け、延々と、ないない尽くしで様々な業界や業種、職種に存在する非正規労働者を一括りにし、あれもないこれもない、だから、氷河期非正規は正社員になれないという理由を生み出していないでしょうか。

どんなに氷河期非正規が自分のこれまでをアピールしても「所詮、非正規のやること」と思わせてしまう世論を作り出していないでしょうか。

私たち当事者が変われば、あきらめれば問題解決?

政府だけでなく、社会も、私たち当事者を変えること、作り変えることばかりを考えます。

世間からは「職種によっては担い手が足りてないところもある。そこを志望していないだけでしょ?」「中小零細を嫌うから仕事が無いのだ!」など、世代当事者側の姿勢を問題視する意見が、昔からよく投げつけられます。

求人があることと、氷河期非正規が採用されることは別なのです。求人があるから中小零細だからといって氷河期非正規が採用されるというわけではありません。世間の考える人手不足と、企業の考える人手不足とは違います。

「仕事(職種)を選ぶな」とも、よく言われます。世間で思っているように、私たちは贅沢な選択をしてきたわけではありません。氷河期非正規の多くは既にここに至るまでに様々に模索しながら、様々なものをあきらめ、捨てて、今を生きています。中には先ほどの「仕事を(職種)選ぶな」という声や「あきらめろ」という「アドバイス」を受け入れ、専門をあきらめ、今の仕事でやっと生活しているというケースもあります。

ハケ子自身、諦めないから正社員になれないのだと言われ、方向を変えて、今の仕事を必死に覚えてここまで来ました。しかし、正社員にはなれていません。

私たち当事者がその「アドバイス」に従って、再び耐えて、諦め、捨てて、あっちへ行け、と言われた業界や職種へ移動することで救われるのは、私たちではなく、そのアドバイスをした人たち(政府、識者、世間)ではないでしょうか。

捨てて、諦めて、違うものへ飛び込むというのは簡単なことではありません。経験した方はよく分かると思います。たとえ「アドバイス」だとしても、その責任を自己責任として負うのは当事者です。

簡単にこうあるべき、こうすべきと括ることも、世代当事者の視野や指向性で片付けるのも安易すぎます。企業の求人やスカウトメールの文言をみるとよく「次世代を担う人材を募集」と書かれています。果たして、それが意味するところはどういうことでしょうか。

私たち氷河期世代は次世代を担う年齢としては該当していません。年齢が行き過ぎており、そもそもニーズにマッチングしていないのです。我慢や諦めでどうこうなるものばかりではないのです。

15年前の議論、世論と既視感 失敗は繰り返す?

今、2005~2006年にかけてのフリーターへのキャリア教育などについて書かれている厚労省白書や国会議事録などを読んでいますが、まさにデジャヴ、既視感満載です。「意識改革」「人間力向上」「スキル向上」「再教育」などの言葉が並びます。

2009年4月の通常国会決算委員会議事録には「委託金」の話も出てきて、2020年の話かと思うような有様です。今と大差ありません。あのころと同じように、今回の就職氷河期世代の支援が失敗に終わるのでは、と想像するのに十分です。

15年前から政府や役人の考えることや世間の「アドバイス」、そして支援がどうあるべきかも、相変わらず当事者に背を向けひたすら机の上で粘土をこねるような議論でしかなく、再教育と当事者の再挑戦などの言葉のリサイクルにとどまります。

ただ一つ、私たち当事者が当時と違って、わずかに希望が持てるとしたら「自己責任では片付けられない問題である」という論点が出てきたことです。この点は先に挙げた2005年~2006年当時の文書の中にも出てきてはいましたが、社会へ報道されるなどで広くそれが提起されたのは、今この2020年であり、この点はメディアの報道は評価できるところです。

しかし、長らく染みついたこの国の自己責任論はまだまだ根深いものがあります。当事者が声を上げれば、当事者の姿勢の問題で片づけられてしまいます。支援がどうあるべきかという記事の中でも、このまま机の上で粘土をこねて、当事者をそっちのけで支援はこうあるべきこうするべき、と続ければ再びの失敗を見ることになるでしょう。

識者の声も大事ですが、労働当事者ではありません。現場で苦しみながら今を非正規労働者で生きている労働者ではありません。どうか様々な多くの方たちに、私たち当事者の現状に目を向け、声に耳を傾けていただきたいと思います。本当の意味で私たちの行く先を照らすアドバイスをいただけたらと思っています。

社会や世間、政府が満足する支援ではなく、当事者が救われる実効性のある支援を望みますし、私たちと共にそれがどうすれば実現するのかを考えていただきたいと思います。

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