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(掌編)『イミテーション・スノー』(鵜)

 イミテーション・スノー      鵜狩愛子

 
 この世界に、イミテーション・スノーしか降らなくなったのはもう二世紀も昔のことだ。
 
 本物の雪はもう久しく降らなくなっていた。
 温暖化が進みに進み、南極の氷さえついに溶けてしまった日、模造(イミテーション)雪(スノウ)は誕生した。
 核となる粉末さえ用意できれば、人工的に降らすことができる。
 
 単なる人工雪ではない。
 溶けやすさを調節することができる。
 色も降り方も自在に操ることができる。
 
 崩れ続ける氷河を留めるために、また、砂漠の緑化のためにも模造雪はまたたくまに世界のあちこちに拡がった。
 
 淡い緑の模造雪が砂漠を覆う。
 熱く乾いた地面を冷やし、数か月もかけて溶けながら、砂漠の中にしみていく、水。
 緑の雪には乾燥させて粉砕した苔が使われていて、砂漠の表面に溶け残ったそれが時間をかけて根付き、ほんの少しずつ、世界を緑にしていった。
 
「結果、思った以上にさっさと温暖化は解決してしまった。普通の雪も、気づけば降るようになっていたわけだ」
 サトルは傘から右手のひらを上にしてはみ出させ、大きく空気を含んだ雪を受け止める。
 雪は一拍分だけ持ちこたえてから、溶けて形をなくしていく。
「ああ、つめたい」
溶け始めた雪が手のひら全体に広がり、その上にまた雪粒が積もる。手のひらを振って水滴を落とし、そのまま冷たさをたしかめるように頬にあてる。
「イミテーション・スノーしか降らなかったころは、今よりずっと暑かったんでしょう?」
 ミサトはマフラーにあごを埋めて、右隣のサトルを見上げた。
「そうだね。そのころは、雪なんて言い伝えの中のものだと思ってたよ」
「ふふふ」
「ぼくも子どもだったんだよ、そのころは」
 サトルは微笑んで、ミサトの頭に手を乗せる。
「だから作ったのね」
「そうだ」
 
 サトルは模造雪の開発者だった。
 物語の中だけで知る、一面の雪景色が見たかったのだ。
 
 どこまでも続く青い夜に現れる、雪の女王に会いたかった。
 クリスマスの日の朝に、山ほどのプレゼントをひらきながら窓の外の雪だるまを眺めたかった。
最初にそう思ったのは、もう二五十年も前のことだったか。
 
 サトルの外見は五十歳ほどで止まっている。そのあたりで止まるように調整している。
 周りの人間も似たようなもので、思い思いの年齢で日々を過ごしている。
 外見が整えられても、中身は不死身とはいかない。不老も不死も、まだ伝説の中の話だった。いつかは誰かが変えるかもしれないが、いまの技術はまだ、寿命を延ばすにとどまっている。オープンカフェで愛を語らっていた若々しい美男美女が、突然老衰で倒れるなんてことも珍しくなかった。
 
「あ、始まるよ、急ごう」
 ミサトが急かす。
 ミサトの中身は五十歳ほどだったか。この世界では若い方だ。外見は二十五歳ほどに整えている。サトルからすれば曾孫ではすまないほど年下の女性である。
「ほら! 降り始めた!」
 雪空にかすかに残っていた青空がたちまち覆われていき、そこから一斉に、薄いブルーの雪が落ちてくる。模造(イミテーション)雪(スノー)。
 
 必要がなくなった今も、模造雪は消えることはなかった。
 花火のように、イベントの演出の選択肢のひとつとして残ったのだ。
 ミサトは子どものようにはしゃいで駆け出して、傘も放り投げて笑っている。
 空を向いて大口を開けて雪を受け止めている。菓子店だけで作られたビルの落成イベントだった。今日の模造雪にはほのかに味がつけられているようだ。
「ああ綺麗だった。私はこの雪が大好き。おいしいし、楽しいし」
 戻ってきたミサトがサトルの腕に絡みつく。
 家まで送り届けて、次のデートの約束をする。
「うんとおしゃれをしておいで。とびきりの店に連れて行くからね」
 
 次のデートは、プロポーズの予定だった。
 いくら若さを保ってきたとはいえ、そろそろサトルの命も尽きようとしている。残り少ない時間をミサトと過ごしたかった。
 
 その日、待ち合わせにサトルは来なかった。
 ミサトは何度か電話をしてみたが繋がらなかったので、一人で予約された店に行ってみた。風も凍るほどに寒い日だった。
 店の主人は、サトルの伝言を預かっていると告げて、ミサトを海に面した見晴らしの良い席に案内した。窓の外に拡がる空も海もどこまでも澄んでいる。
「今日はサトル様はお見えになれないようです。もしお嫌でなければ、用意いたしておりますお食事を楽しんでいただけないでしょうか」
 ミサトは頷いた。せっかくのドレスと景色だもの。プレゼントだと思って楽しもう。
 食事が進み、変化のない景色にやや退屈し始めたところに、始まった。
 空からふわりふわりと、
「雪だわ」
 ほのかに色のついた、
「いや、……イミテーション・スノー?」
 この近くで何かイベントが行われているのだろうか? 街から少し離れた、浜辺のレストランだったけれど……。
 すぐにミサトは言葉をなくした。
 これまで見たことないほど、見事な『構成』の模造雪だったからだ。
 
 薄い緑色で始まり、次に流れるように紺色と薄桃が落ちてくる。それらが海に溶けていく。余韻を風が乱し、あたたかな黄色と橙色が雲間の日光のようにまばらに降る。海に落ちる流れ星を思わせるスピードで、
「こんなに早く落ちることもあるのね……」
 落ちた部分の海が輝く。
 そのすべてを包み込むように、再び薄桃色が視界を覆うほどの厚みで降り落ちる。
 ミサトの目の前で、大楽団が演奏をしたかのような時間だった。
 この景色を見ているのはミサトだけ、店にも他には誰もいないようだった。
「サトルさん。今日は来られないなんて言って」
 どこかに隠れているのね、と立ち上がろうとしたところで、さらに空から降ってきた雪に気が付いた。まだ終わっていなかったのか、と坐りなおす。
 
 雪は、赤い色をしていた。
 少しだけ青みがかった、ラズベリーレッドの雪が、後から後から降り積もる。
 どの雲から降っているのか、空はもう晴れているのに雪だけが降り続いている。海に落ちると雪は白く変わり、そのまま透き通って消えていく。
 赤い色は花びらのように華やかでもあり、どこか親しさを感じさせるようでもあった。
 
 虹の模造雪は、サトルが今日のために腕によりをかけて用意したものだった。プロポーズのための一世一代のプログラムだ。なのにサトルは約束の三日前にふいに死んでしまったのだ。
 サトルは自分の死後についてもかねてから遺言を残していた。
 
 遺体はすみやかに乾燥させ、指示した手順で模造雪の核とすること。
 死ぬのがどの季節であれ、その雪がもっとも美しく見えるレシピを用意していた。
――ああ、ついにおれは死んでしまうのか。
 悟った瞬間、サトルは最後の力で指示に書き加えた。
『なお、この体を使った雪は、虹のプログラムに続けて降らせること』
 そして、長年自分が研究していた研究所へコールをして、息絶えた。
 
 ミサトはまだ空を見ている。
 うっとりと、けれどどこか寂しい気もするわ、と思いながら。 
 
 ミサトはついに、窓をあけてバルコニーに出てみる。
 赤い雪は思ったほど冷たくなくて、肌に触れると涙のように溶けて流れていく。ふと、この雪の匂いは知っているわ、とミサトは思いついた。
 まるであの人の手のひらみたい。
 そう思うといっそう、赤い雪が近しく感じられた。
 ラズベリーレッドの雪は、撫でるようにミサトを包み込んでいる。
 
                             終わり

2019年「KGB vol.1」録
 

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