(掌編)『浦島さん』(フ)
浦島さん フランソワゆみこ
「ヒラメちゃん、3番テーブルにお願い」
媚びるような笑顔を浮かべて、マネージャーの亀吉が控え室に入ってきた。
途端に、ヒラメはつぶらな瞳を不機嫌に曇らせる。
「えーっ。アタシ、今日はもう上がりなんですけど。あとは、乙姫のババアに任せとけば良いじゃないですか」
亀吉は慌てて前ヒレをバタバタと動かした。
「頼むから、余計なこと言わないでよ。ただでさえ、ママはご機嫌ななめなんだから」
「あいつの厚化粧が怖いから、お客が来なくなるのよ」
「そんなこと言わないで。僕だって、がんばって陸地まで営業に行ってきたんだよ。せっかくお客さんを連れてきたのに、ヒラメちゃんがいないと盛り上がらないでしょう」
彼女はため息をついて、重い腰を上げた。
ヒラメは「クラブ竜宮城」の踊り子だ。ピチピチした体と優雅な舞いが評判で、抜群の人気を誇る。ママの乙姫にはそれが面白くないらしく、彼女に何かと難癖をつけるのが常だった。
店内にはいつものように乙姫の甲高い声が響いている。
「年増のくせにかわい子ぶりやがって」
ヒラメが舌打ちしながら客席に近づいていくと、乙姫の隣に若い人間が座っていた。
「こちらは浦島太郎さん。遠いところからわざわざお越しになったの……」
ヒラメは太郎に見とれて、何も耳に入らない状態に陥った。キリッとした眉に、日に焼けてがっしりとした肌。水中には決していないタイプだ。
夢心地になっていたところを乙姫に肘で突かれ、彼女は慌てていつもの舞い踊りを始めた。太郎はぎこちない様子で酒を飲みながら、時折恥ずかしそうにヒラメのほうを見る。彼女は目が合うたびに体が熱くなって、何度も振り付けを忘れそうになったが、なんとか踊り続けた。
「ハーイ。ヒラメちゃん、ありがとう」
乙姫は太郎にしなだれかかりながら、顎をしゃくった。「そろそろ引っ込め」の合図だ。あとは太郎と二人で盛り上がろうという魂胆が見え見えだった。
このアタシを前座扱いとは何様のつもりだ。ヒラメは彼女の言葉を無視して、太郎の横にべったりくっついた。
「なんのつもり?」
乙姫は眉間にシワを寄せた。
「アタシも太郎さんとご一緒しようと思って」
「ちょっとこっちにきなさい」
乙姫は怒りを露わにすると、ヒラメの背びれを掴み、奥の部屋へ強引に引っ張っていった。
向こうの部屋から怒鳴り声や激しい物音がしている。太郎は落ち着かない気持ちで周囲を見渡した。今何時だろう。よくわからないうちにこんなところへ連れてこられたが、遅くなると母親が心配する。
「いい歳をして母ちゃんの顔色ばかり伺っているから、嫁のきてがない」
そう周りから嗤われているが、何事も自分で決断できない彼にとって、母は常に絶対の存在だった。
途方に暮れていた太郎の元へ、ようやく乙姫が戻ってきた。その髪は乱れ、薄衣が肩までずり落ちている。太郎は耳を赤く染めながらも、それに気づかないふりをして視線を外した。
「僕、そろそろ帰ろうと思うんですが」
「あら、なんのお構いもできなくてごめんなさい。亀に送らせるわ」
太郎が帰ると聞いて、その声は心なしか安堵の色を滲ませていた。
「たいしたものじゃないけど」
乙姫は艶やかに光る漆黒の玉手箱を差し出した。
「お土産よ。絶対にうちに帰ってから開けてね」
そう告げると、強引に太郎の胸元に押し付けた。どうやら断るという選択はないらしい。彼は玉手箱を受け取ると、挨拶もそこそこに亀の背中に飛び乗り竜宮城をあとにした。
太郎が浜に着いた時には、辺りはすっかり暗くなっていた。
「こんなに遅くなって、お母さんに怒られるかなあ」
気落ちしてうつむき加減になると、胸に抱えた箱のことに気がついた。そういえば中身はなんだろう。手荒く紐を解いて蓋を開けてみた。
そこには、敷き詰められた氷の上にバラバラになったヒラメの屍体が並べられていた。
太郎は目を輝かせた。ヒラメの刺身は母親の好物だ。これさえあれば、機嫌を直してくれるに違いない。
すっかり気を良くした太郎は、鼻歌を口ずさみながら家路を急いだ。
(完)
2019年「KGB vol.1」録
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