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(掌編)『かき氷の男』(K)

かき氷の男      K.I.クラーク
 

こんなに暑いと溶けてしまうのではないか。死の予感が胸の奥底からにじみ出てくる。午後2時。体中の毛穴から汗がポンプの放水のように噴き出し続けている。男はこのまま自分が溶けて蒸発して消えるという不安に、身が凍るほどの戦慄にふるえる。いや違う。正しく言えば男はすでに凍っている。なぜなら彼は、かき氷だから。
 
彼が自分をかき氷と思い込むようになったのは、上京して勤めた老舗かき氷店での激務が原因だった。昔気質の店主はこれと見込んだ若者を徹底的に仕込んだ。良い氷の見極め方、美しく薄氷を削り出す繊細な技術、シロップ蜜の品質管理、等々。早朝から深夜まで修行は休みなく続いた。そしてずっと店主から繰り返し言い聞かされた言葉が、
「かき氷の気持ちになれ」だった。
その言葉を呪文のように聞き続けるうち、ついに男はかき氷になった。
 
 

「脳天にキーンと一撃お見舞いするぜ」
これが喧嘩する時のかき氷男の口癖だった。切れ長の目がアイスピックのように尖った視線を突き刺してくる。冷たい印象を与えるその面構えでこう言われると相手はたじろいでしまう。脳天を打つという喧嘩殺法がどのようなものなのか誰もよく知らないが、頭を固い氷の塊で殴られるような衝撃らしい。要は油断のならない相手なのだ。やさぐれ者が多いこの界隈にあっても特に夏は無敵という。
いっぽう冬の間、街で彼の姿を見ることはほとんどない。そんな時期に、人々はこの謎めいた男の噂をする。寒村の出身である、猫舌である、身体中に削られたような無数の傷跡がある、熱い風呂には入らない、云々。男のことをよく知る者はいない。自分ほど冷たい人間はいないと彼は言うが、それも誰にもわからない。
 
 

 夏が到来した7月のことだった。男は新しく開店したかき氷店の前で、ひとりの娘と出会った。その瞬間、彼のハートの中心部から甘い蜜が染み出して、体中をうっとりと満たした。恋のはじまり。彼は自分の血液がすべて真紅のいちご蜜に変わったと感じた。だがひとつ大きな問題があった。娘もかき氷だったのである。今年の夏は記録的な異常高温に達するだろうと報じられていた。この人はもうすぐ溶けて消えてしまう。男の顔はブルーハワイ色に青ざめた。
 
 

 気象庁が本日はこの夏最大の猛暑日だと宣言した。彼の住む九州北部では史上初めて45度近くに達するかもしれないという。そしてその日は朝から熱波と蝉の泣き叫ぶ声が街中を覆いつくした。あの人は大丈夫だろうか。体が弱いのだから無理して仕事を頑張りすぎるなと何度も言ったのだが。男は心配に駆られ、かつて経験したことのない炎暑に燃え上がる街の中を、彼女の働くかき氷店へと全力で走り出した。
 
 

こんなに暑いと溶けてしまうのではないか。死の予感が胸の奥底からにじみ出てくる。午後2時。流れ出る大汗が足跡のように点々と残っていく。男はこのまま自分が溶けて蒸発して消えるという不安に、身が凍るほどの戦慄にふるえる。体が軽くなったような気がするが、これは実際に自分の身体が溶解して小さくなってきたからなのだろうか。目の前の光景が湯気立ってゆらゆらと歪んで浮かぶ。
自分だけでなく、あの人も溶けてしまう。氷はやがて水に還る。残るのは水とシロップの混ざった薄い液体だけ。その想像が彼を苦しめる。溶けてなくなるからかき氷でしょ。私たちは生まれた時から溶けはじめていたの。先週末の夜、二人きりの部屋で彼女は独り言のように言った。まるで中身のない詩のようなこの言葉が彼には理解できなかった。その晩、眠りにつく前に彼女は小さくつぶやいた。次の夏が来たら、また会えるかな。その顔はまるで純氷の柱から削り出された彫刻のように美しかった。
 
 

熱波は理性をもたない猛獣のように荒くれた強い力で街中を襲った。橋の欄干のそばで、公園のベンチで、目まいを起こして倒れ込む人々がいた。いよいよ一日の最高気温に達したようである。彼は力尽きる寸前でついに彼女の店に辿り着いた。しかし彼女とよく一緒に仕事をしていた背の高い男性店員は冷たく告げた。あの娘は店を辞めました。形を失った氷が蒸発して消えたみたいに、その姿はもうどこにもなかった。
 
かき氷は溶けてなくなる。彼は自分自身がかき氷だからよく知っている。それでも次の夏が来たら、いや、その次の夏が来たら。いや、その次の。
夏が来るたび、男は街中のかき氷店を訪ね続けているという。
                            了
2019年「KGB vol.1」録
 

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