【日記】エドワード・ゴーリー展、梟書茶房にお出かけした日

6月11日の日曜日。普段は土日に一歩も家から出ないことで有名なこの私が一念発起してお出かけをすることにした。色々書いていたら7千字超えになってしまったものの、要はとある日曜日の日記だ。
出かけた場所は、この日記のタイトルにある通り『エドワード・ゴーリー展』『梟書茶房』だ。


〇渋谷松濤:エドワード・ゴーリー展


渋谷駅から徒歩10分ほど、松濤美術館開催。数日前まで知らなかったが、最終日が6月11日だと知ったので飛び込みで行くことに。

松濤という場所は噂によるとものすごいお金持ちの人たちが住んでいる選ばれし超高級住宅街らしい。路地を歩いているだけでは外から建物の様子が一切わからない要塞のような家が建ち並び、そもそも出歩いて移動する人間なんか住んでいないので通りはひたすら静かだ。若者がウェイウェイしているすぐ奥にそんな閑静な超高級住宅街があるなんて、今考えても不思議な気持ちになる。

さて、そんな松濤なわけだが、エドワード・ゴーリー展が開催されている松涛美術館は松濤の中でも比較的賑やかな表通りに近く、その表通りが松濤文化村ストリートというらしい。言われてみれば可愛らしいカフェや洒落たバーが多く、あと何だかわからない雑貨屋さんがあった。時間に余裕があったら入ってみたい場所だ。

松濤文化村ストリートをしばらく歩き、一本内側に入ったところ。
目に入ったのは松涛美術館――と、長蛇の列。

めっっっっちゃ混んでた。

そういえばエドワード・ゴーリーって日本での人気も高くて、その上今日は日曜日かつ最終日。混雑することは想像に難くないはずだったがシンプルに私はエドワード・ゴーリーの人気を舐めていた。
ただ列の長さはすごかったものの、入場受付自体はさほど時間がかかるものでもなかったので、列の進みは速かった。待ち時間の間、電子書籍を読むことで時間を潰した。(最近は連城三紀彦「戻り川心中」をちまちま読んでいる。短編集で、今のところ「桐の柩」が一番好きかもしれない。)

受付を通り、確か2階と地下に展示場があった。地下は主に原画の展示、2階は原画の展示と、中央に大きなテーブルと、テーブルを囲むように黒い革張りの長いソファがあった。テーブルにはエドワード・ゴーリー作の絵本が並べられており、誰でも自由に読んでいいようになっていた。
最終日ということもありソファは常に満席だったが、絵本は一冊一冊がそれほどの長さでもないので、絵本とソファの回転率はそれなりに良かった。私は隙を見つけて絵本を持っていき、ソファに深々と身を沈めて何冊か読んでみた。
以下は読んだ絵本の中で気に入った作品。ストーリーは覚えている限りを丸々全部記載しているので気になる方は注意だ。

・不幸な子供
ゴーリー版の小公女のような話だが、小公女よりも主人公がマジでエグい目に遭って悲惨な末路を辿る。以下はネタバレ。

とある裕福な家庭の娘・シャーロットはお人形といつも一緒。しかしある日突然、海外で仕事をしていた父親の訃報を受け取る。後を追うようにし母は衰弱死。弁護士に引き取られたシャーロットは寄宿学校に入れられることとなった。しかしその中でシャーロットは先生や生徒からいじめられる。先生からは謂れのない罰を受け、生徒たちから人形を引き裂かれ、シャーロットは毎晩泣きながら過ごした。

耐えかねたシャーロットは寄宿学校を脱出し、道端で倒れ込む。しかしいたいけな少女が外で倒れて無事でいられるはずもなく、ゴロツキに拉致され、食事を満足に与えられない劣悪な環境で造花作りの内職をやらされることとなる。シャーロットの体は日に日に痩せ細り、目は殆ど見えなくなった。
恐らく元からヤクをキメていたであろうゴロツキがとうとう発狂した隙をつき、シャーロットはあばら家を抜け出し路地に飛び出す。しかし衰弱し、ほとんど盲目のシャーロットは近づいてくる馬車に気づけなかった。彼女はあっけなく馬車に轢かれてしまった。

馬車から降りてきたのは豪華なコートを羽織った男性。なんと彼は亡くなったと思われていたシャーロットの父親だった。彼は今にも息絶える寸前の少女を抱きかかえる。しかしボロきれのような、骨と皮だけになり目が落ち窪んだ少女のことを、彼は実の娘だとは気づかなかったのである。

びっくりするほど救いがない。このストーリーを実写映画化したら私は絶対トラウマになる。ただしエドワード・ゴーリーのすごいところは、この悲惨な物語を、ある意味で淡々と静謐を保ち描き続けているところにある。と私は思う。

エドワード・ゴーリーの絵はモノクロで、全体的に暗い絵だ。しかし私は、彼の絵からは「絶対に人を嫌な気持ちにしてやる!」というような露悪的な下心を感じなかった。精密なデッサン、静かに佇む人、魂を込めて描き込まれた背景は実在感があり、そのため絵本の1ページ1ページが「日常の風景を写真で撮ったかのような美しく精巧な絵」だった。

彼の作品では子供は酷い目に遭い、猫は決して酷い目に遭わないのだという。「可哀想は可愛い」とかいう言葉があるが、ゴーリーに関して言うならば子供を可哀想な目に遭わせるのが好きというよりは、子供が酷い目に遭うことは彼の世界においては「まぁそういうもの」なのだろうと私は感じた。つまり彼が世間で持て囃されている作品の悲惨さ、暗さ、風刺、残虐さとは彼の目から見えている日常風景、彼の持つ常識であり、あくまで彼は彼の内面にある世界を淡々と丁寧に描き出しているだけなのだ。実際に彼はこの「不幸な子供」を友人の女性にプレゼントしているらしく、何を思ってどういうテンションでこの作品をプレゼントしたかは今となっては誰もわからない。しかしこうした『世間』と『エドワード・ゴーリーの世界観』との温度差が、彼の作品を名作たらしめている所以なのだろうと私は考える。
(勿論、子供を酷い目に遭わせるのを彼が好き好んでやってるんじゃないかと言われたら、私はゴーリーではないので何とも答えられない)

ところで私はこの作品の原画が展示されている列に並んでいたのだが、私の後ろに並んでいたお客さんたちから「可哀想……」「可哀想……」というものすごく素直な感想が漏れ聞こえてきて私はちょっと面白かった。

・音叉
以下ネタバレ。
主人公の女の子・シオーダは見た目が悪く、声や話し方が不快だと言われ家族の中で迫害されていた。家族内での扱いに耐えかねたシオーダは、海に飛び込みその短い生涯に自ら幕を下ろす(なおこの時点で開始2,3ページくらいだったと思う)。しかし海底で彼女と出会ったのは、海に住むバケモノだった。バケモノは水底に女の子がいることに驚き、シオーダもまたバケモノと目を合わせて驚く。しかしシオーダは出会ったばかりのバケモノへの恐怖心をさておいて、何故自分が海の底にいるのか、そして自らの生前の境遇を切々と訴える。バケモノはシオーダが受けてきた仕打ちに愕然とし、それならばと復讐を買って出ることにした。

翌日、一家の大黒柱である父親が浴室で不審死を遂げていた。そして後に続くようにして、一家の人間はバタバタと死んでいく。そうして一家全員皆殺しは見事に達成された。

その町には、バケモノの背に女の子が乗っている姿を海で見た者が多くいると言う。女の子とバケモノは不吉の象徴として忌み嫌われ、今でも語り継がれている。

絵本の後ろには和訳の翻訳者あとがきがついているのだが、「エドワード・ゴーリーにしては珍しい勧善懲悪モノ。しかし『エドワード・ゴーリーにしては珍しい』ということは、つまりマイナスにマイナスを掛けてプラスにするようなものなので、要するにストーリーとしては普通」と書かれていて内心めちゃくちゃ笑ってしまった。毎回そうだけどエドワード・ゴーリーの翻訳者のあとがきは書き方に癖があって結構面白い。

海のバケモノの造形がややコミカルで可愛らしい。最終的に女の子もバケモノとなってしまうので町の人からは恐れられているが、イルカのようにバケモノの背に乗って海を駆ける少女はとてもイキイキしていた。この物語はきっとエドワード・ゴーリー的な海のバケモノと女の子のハートフルストーリーだ。ただし人は死ぬ。

・思い出した訪問
以下ネタバレ。
両親に連れられ外国に旅行に来た少女・ドゥルシラ。彼女は天気の悪い憂鬱な日を部屋で一人で過ごしていた。両親は何故か彼女を宿に置いて出かけるし、ドゥルシラは景色を眺めたり雨を眺めながら雑誌をパラパラめくる以外することがない。そんな彼女の元を、知人のお嬢様・スクリム=ショー嬢が訪れる。彼女は傘を差し、貝殻や魚の模様が入った綺麗なドレスを纏った女性だ。スクリム=ショー嬢はドゥルシラを宿から連れ出し、とある老人・クレイグ氏の屋敷を訪れる。
クレイグ氏はスクリム=ショー嬢とドゥルシラにお茶とお菓子を振る舞い、楽しくお喋りする。その間なんやかんやあるがそれはさておき、クレイグ氏はドゥルシラに「君は紙が好きかい?  二階の部屋に綺麗な紙があって、いつか見せてあげられたらいいのだが」と言う。彼女は彼女で「私は手紙の内紙をたくさん取ってあるの。いつかあなたに送るわね」と返す。そしてスクリム=ショー嬢とドゥルシラはクレイグ氏のもとをお暇し、ドゥルシラはスクリム=ショー嬢に手を引かれ宿へと帰っていく。道中、お菓子を食べたはずなのに何故か来たときよりもお腹が空いていた。
さて、その日から数日が経ち、数週間が経ち、数ヶ月が経ち、数年が経ち……ドゥルシラはすっかりクレイグ氏との約束を忘れていた。背が伸びて大人の女性に近づいたドゥルシラは、ふとクレイグ氏の屋敷へ訪問した時のことを思い出す。そして連鎖的にクレイグ氏と交わした約束を思い出したのだ。ドゥルシラは慌てて、クレイグ氏に送る手紙を探して部屋の荷物を漁る。しかし荷物の隙間から一枚の新聞が滑り落ちる。そこにはかつて訪れたクレイグ氏の訃報が載っていた。

ドゥルシラは綺麗な紙の束を窓際に置く。紙は風にさらわれ、一枚一枚飛んでいく。彼女はそれを黙って眺めていた。

終わり方が切なくて良い物語。感想を少し漁ってみたら「珍しく子供が酷い目に遭って死なない話」と書かれていて笑ってしまった。言われてみればそうだ。でも老人は死んでいる。
これは絵本を実際に見てみないと伝わりづらいが、ストーリーは平和に見えるものの絵は全体的に不穏だ。例えば最初の数ページはドゥルシラが一人で過ごしているシーンは天気が悪く、海は荒々しく寒々しい。その上両親がドゥルシラを置いて外出してしまうシーンは酷く寂しい。ドゥルシラを雨の中連れ出すスクリム=ショー嬢は結局何者なのかわからず、クレイグ氏への訪問、そして屋敷の中で交わされる言葉は要領を得ない。最後にドゥルシラは数年を経て成長するが、その間も彼女は一人ぼっちで屋敷の中を歩き回っていて、家族であれ友人であれ誰かと幸福に過ごしている様子が窺えない。平穏だが不穏が目に付く作品、という意味であればこれも確かにエドワード・ゴーリーらしい。
この訪問の出来事は現実だったのだろうか。クレイグ氏の訃報が実際に新聞に載っていた以上、ある程度現実ではあったのだろう。ただし疑わしい部分もある。何故ならお茶会の最中のなんやかんやの部分は少し現実離れしているし、お茶会の帰り道は「来た時よりもお腹が空いていた」つまり「おそらく何も食べていない」のだ。ドゥルシラは一体誰に、どこに連れていかれたのだろうか。

ただ――大事なのは現実か、虚構かではない。一人ぼっちで長年過ごしてきたドゥルシラは、同じように一人ぼっちで生きて死んでしまったクレイグ氏を思い出した。クレイグ氏はドゥルシラからの手紙を待っていたのだろうか。それはもう誰にもわからない。しかしきっとドゥルシラは、約束を守れなかった相手のことを今度は忘れられないのだろうと思う。


展示会そのものも興味深かったが、こうして大きなテーブルを囲み、知らない人たちと絵本を読む空間がとても楽しかった。
誰かが絵本をテーブルに戻して席を立つ。待ちわびていたように誰かがすかさず絵本を取り席を埋める。また誰かが席を立ち、本を置く、本を取る、席に座る……黒いソファを黙って埋め尽くす人と、ページをめくる音。入れ替わり立ち替わるそのリズム感はエドワード・ゴーリーの世界観とやけにマッチしていて、とても居心地がよかった。人が多くてやや辟易としたものの、同じ世界観を共有する人間がここまで一堂に会する空間というものも中々面白い物だなぁと思った。



〇池袋:梟書茶房(ふくろうしょさぼう)

関東圏に住んでから数年経っているくせに仕事以外でほとんど家から出ない私は、東京のなんとかディビジョンがいるような渋谷、新宿、池袋等々……あの辺の有名な地区の位置関係を全く把握しておらず、何なら全部似たようなところにあると思っていたので、「池袋は渋谷から数駅離れている」のを知らなかった。「東京」のくくりで1日のうちに東京に行く用事を済ませようとすると多少頑張らなければいけないらしい。良い子は乗り換えを調べてから行こうね。

梟書茶房は池袋駅のすぐ上のビルにあるブックカフェ。このカフェの特徴はなんといっても「ブックカバーで本の装丁が隠されており、タイトルのわからない本を選んで買える」ところにある。

梟書茶房URL:https://www.doutor.co.jp/fukuro/

カフェの前に大きな棚があり、「疲れた時に読む本」「癒されたい時に読む本」「楽しい気分になる本」等々の見出しが書かれたブックエンドがある。それぞれのエリアにはカバーが掛かった本が並び、表紙には本の番号、そして短いあらすじや本の雰囲気などの紹介が書かれている。お店に来たお客さんは自分の気分に合う本を選び、タイトルも作者もわからないわくわく感を味わいながら本を買うことになる。
会計はカフェの前の大きな本棚の近くにあり、レジ横にはコーヒー豆も売っている。本のみ、コーヒー豆のみの会計も可能。また、本を買うとカフェのコーヒーが安くなる券がもらえるので、そのまま本を買った後にカフェに入っても良い。
(※なお本はビニール袋で梱包されているので、買う前に中身を確認したり、未会計のままカフェに持ち込むことはできない。)
人へのプレゼントにしてもよし、自分へのご褒美にしてもよし、買ってそのままカフェに入ってすぐ読むもよし。本とコーヒーが好きな人にお勧めしたいお店だ。

さて、私は日曜午後6時に池袋に到着し、エスカレーターを上り4階の梟書茶房にたどり着いたのだが――

めっっっっちゃ混んでた。

そういえば梟書茶房は知る人ぞ知るとはいえ池袋で人気のお店で、その上今日は日曜日かつ夕飯時。混雑することは想像に難くないはずだったがシンプルに私は梟書茶房の人気を舐めていた。

そして何よりも自分の気分に合った本をランダムで買えるはずの本棚はほぼ空になっていた。

一か所だけやたら本が残っていたエリアがあったが、内容を見るに多分「大人になって学び直す世界史」的な文庫本でしかも上下2冊セットだったので、進んで買う人がいなかったのだろうと思う。

結局どうにか僅かに残っていた1冊の小説を購入し、店の前で名前を書いてしばらく待ってから入店した。

梟書茶房に興味を持った方に是非とも伝えたいのは、あの大きな本棚から自由に本を選ぶのをやりたい方は絶対に日曜日の午後6時は避けた方がいいということだ。でないと選べるほど本が残っていない。ゆっくり過ごしたいなら多分平日の午前中とかお昼とかがいいと思う。土日でもきっと午前中ならいけると思う。繰り返すが日曜日の午後6時は本当にやめた方がいい。


本を購入。タイトルは勿論秘密。

上の写真にも少し映っている通り、各席テーブルの下にも本が設置してあり、自由に手に取って読むことができる。
そして会計時にレジに持っていくのがレシートや札ではなく、このナンバーのついた鍵というのがまた洒落ている。アンティーク調の鍵は手の上で転がすとやや重く、ずっしりとしていて手触りが良い。細かいところまで店の雰囲気を統一した良いカフェだった。

めちゃくちゃ混雑していたのであまり歩き回れなかったが、店の奥には自由に本を選べる図書コーナーがあるらしい。そこだけでなく店のいたるところに雑誌や本が配置されているので、思う存分本とコーヒーを楽しむことができる。なお思う存分楽しむのであれば日曜日の午後6時は絶対にお勧めしない。ちなみに本だけでなくコーヒーとパスタも文句なしに美味しかった。梟ブレンドはやや深煎りでコクがある風味で、深煎り好きの私は満足だった。一杯一杯ハンドドリップで淹れているので、コーヒー好きにもお勧めしたい。

〇1日を終えた独り言

左手の中で鍵を転がしながら考える。一日が過ぎるのは速い。ものすごく速い。最近は特にそう思う。それはただ忙しいからなだけでなく、暮らしにまつわることを連続的に、平行に、散漫な注意力のまま片付けているからだと思う。
例えば食事をとりながらスマホで動画を見る。仕事をしている最中に頭の中では趣味のことを考える。誰かと通話しながら作業をする。通勤しながら音楽を聴く。私たちは何かをしながら常に何かで気を紛らわしている。そうして注意力と体力を分散しながらでも、動き続けなければ何も片付かないからだ。
しかし、そうしてあらゆることに分散しながら接し続けると、段々その物の対象が把握できなくなっていく。食事を食べながら動画を見ると食べ物の味がよくわからなくなっていく。仕事をしながら別のことを考えていると問題の本質が理解できなくなる。通話しながら作業をすると成果物でミスをする。通勤しながら音楽を聴くと外の景色や周りの人間が目に入らなくなっていく。
生きて日々をこなすことはできても、生きている実感が湧かなくなる。目の前のものと向き合えなくなっていく。

勿論、スマホを封じて食事に集中すればいい。仕事に没頭すればいいし、作業は真剣に取り組めばいい。イヤホンを持たずに通勤は外の景色を眺めればいい。やろうと思えば自分でできる。

それはそうなのだけれども、でも私にはもう日々をそんな風に過ごす気力すら残っていない。

しかし、だからこそ展示会、本を選べるカフェ等は「目の前のものに集中する状況を敢えて作り出せる」場所だと思う。
デッサンは線を引くことから始まるのではない。まず対象物を観察するところから始まる。本だってそうで、中に書かれているものを見るところから始まる。
博物館、美術館、図書館、水族館……こうした施設はそこにあるものを自分で選び、見て、接して、感じる場所だ。

「ただ目の前のものだけに集中して接する時間」それはいつの間にか贅沢なものになってしまった。どこかに出かける気力があるうちは、私はこうして好きな場所に出かけることを繰り返すだろう。日々の暮らしの中の、切り取られた非日常の中で、生きている実感を味わうために。




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