Orangestarにおける「青空と神話」
Orangestarのアルバム作品は、『未完成エイトビーツ』(2015)『SEASIDE SOLILOQUIES』(2017)『And So Henceforth,』(2023)である。本稿はこれらのアルバムのアートワーク、すなわちジャケットイラストについて述べていく。
『未完成エイトビーツ』のアートワークでは、白いワンピースを着た少女が中心に据えられこちらに背を向けている。表情はようとして知れないが、たなびくスカートや、まっすぐと遠方の都市を望むすがたからは決然とした印象をうける。少女は足首まで水に浸かっているようだが、その水は地平線までつづき、鏡面のように都市を映している。水没した世界の上空には、堂々たる積乱雲がそびえ立っている。
『SEASIDE SOLILOQUIES』には、堤防のうえでグランドピアノを弾く少女が描かれている。全体は水色のトーンで統一されているが、手前の砂浜の波打ち際にだけ、ピンク色の花々がただよっている。上空にはかがやく星がいくつかと、星雲のような星々、そして三日月が浮かんでいる。しかし空は夜とはいいがたく、水平線にむかってうっすらと明るい。これがOrangestarのアルバムであれば、夕暮けか未明かは問うまでもないだろう。夜と朝のあわいで、静謐さとどこか童話じみたイメージが溶解していくのである。
『And So Henceforth,』では、バックパックを背にギターケースをもった少女が、ヤシの木の連なった坂を海に向かって歩いている。道の両側にはカラフルな店舗やアパートがのきを連ねている。ビーチには海水浴客だろうか?なにかしら賑わっているようにみえる。魚眼レンズ風にもみえる構図からか、画面の大部分を占める青い空では、海鳥たちが高く飛んでおり、どこまでも澄み渡っていくようだ。
どれも素晴らしいアートワークであるが、ここでは共通して登場する「水平線」に着眼し、その変遷から想像力を膨らませていきたい。
まず『未完成エイトビーツ』では、中央よりやや上のあたりに水平線がある。少女の位置からも、すこし高いところから見下ろしているような構図になっている。次に『SEASIDE SOLILOQUIES』では、水平線は中央よりやや下にとられている。前作に比して空が占める割合が増え、また視線が地面に近くなったような印象である。最後に『And So Henceforth,』では、下から全体の4分の1ほどのあたりに位置している。少女やヤシの木も見上げるようになっており、それらが空へ空へと屹立しているようにも思える。
つまり、3作にわたって徐々に水平線は下がってきている。それは絵における「視線」が地面にちかづき、また空を見上げるようになっているといえる。
こうしたパースペクティブの変容からは、いくつかの論点が導出できる。たとえば、「地」に足をつけた作品へと変わったとか、しかしそのなかでより「空」を希求する情動が強くなっているとか、曲と関連させて論じることができるのではないだろうか。
しかし、筆者が指摘したいのはむしろそこで停止したモノについてである。そこでは、世界を見下ろすような超越性をうしない、空を見上げるしかなくなった世界が描画されているのだ。
北出栞は、「青空・廃墟・少年少女」を「セカイ系」とよぶ作品群に典型的な特徴だと位置づける。本稿で取り上げる作品では『未完成エイトビーツ』がまさにこれにあたる。また、北出はドイツ・ロマン派の著名な画家フリードリヒの「海辺の修道士」にみられる「大いなる自然に対峙する、小さな人間」という構図をとりあげ、そこで示されるある種の世界観が「セカイ系」へと続くものであるとする(北出 2020)。『未完成エイトビーツ』は、フリードリヒの作品「霧の海の上の放浪者」と非常に似ており、以上と同様の構図の存在を指摘できる。
また、北出は「セカイ系」を究極的な自己言及(反省)として把捉する。反省は原理的に無限性を有するため、その外部を持たず、神話的な存在であるのだという(同上)。
さて、ここで思い出したいのが、Orangestarやアートワークを担当するイラストレーターのM.Bが、「神話的」バックボーンを持っていることだ。あるインタビューでは、OrangestarはM.Bについて以下のように述べている。
また、Orangestar自身も、音楽活動を休止しての「伝導」を行っていた。こうした点から、かれらの作品には視聴者をエンカレッジしようとする意図が一義的に現れる。
ただ、そうした取り組みのはてに、空を見上げることになっていくとは、どういうことなのだろう。それは「『資本主義リアリズム』の憂鬱感を、アイロニカルに内破するためのメタファー」(北出 2020)なのか、それとも救いを仰ぎ祈ることなのか。
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