金曜日一首評:さようならいつかおしっこした花壇さようなら息継ぎをしないクロール/山崎聡子
さようならいつかおしっこした花壇さようなら息継ぎをしないクロール
/山崎聡子『手のひらの花火』
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「死と放埒なきみの目と」の章の最後の一首。
同名の連作は第53回短歌研究新人賞の受賞作だそう。この章の収録歌は30首より少ないので、おそらく受賞時の原稿から推敲されているのだと思う。
この章の歌には印象的な人物が登場する。
真夜中に義兄の背中で満たされたバスタブのその硬さをおもう/同
この義兄である。
他の歌には「きみ」や「君」も出てくるしタイトルも「放埒なきみ」とあるけど、きみと義兄は違う人物であるという認識で読んだ。
「きみ」との相聞的な歌の主体は大人だと思うのだけど、この義兄に対する歌たちは幼い(未成年の)主体が義兄という血のつながらない男性をみている歌のように感じる。そしてそれは思慕のようなものよりも、どことなくトラウマ的な回想という印象を受けた。
大人である"現在"の時間軸と、子ども時代の"過去"の経験や感覚が混在している連作と受け取る。
そこで冒頭の一首を読むと、大人になった主体が子ども時代(そこであった色々なこと)に別れを告げているようにも思う。けどそれは決別、というほどきっぱりしたものでないとも思う。
花壇におしっこをするのは大きくても10歳くらいまでだろうし、きっと生家の花壇なのだろう。だからさようなら、と告げているのは育った家そのものに対してなのかもしれない。
「さようなら息継ぎをしないクロール」は下の句が17音と字余りで、かつ明確な区切りがなくひといきに読んでしまう。「息継ぎをしないクロール」の苦しさと、この急き立てられるような韻律がはまっている。スッと読ませないことで余韻があって、この"クロール"って本当にさようなら、で終われるものなのか、という不穏な感じが残る。
くるしかったことにさようなら、と告げて別れることは前向き・前進に思えるのだけど、そこには確かに喪失がある。
第53回短歌研究新人賞の選考の様子、読みたいです。
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最近"喪失"のことをよく考えています。
何かを受け入れたときは必ずなにか失くしているな……みたいな。
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