小説指南抄(11)物語の発想と膨らませ方(6)

(2015年 03月 29日 「読書記録゛(どくしょきろぐ)」掲載)

物語の発想と膨らませ方(6)

 今回は、物語を発想して膨らませていくに際しての留意点として、作品の同時代性という事を考える。
 「イカロスの翼」(仮)という戦争をネタとしたエンターテイメントを書いていくわけだが、今までのエンターテイメント作品は戦争をどう語ってきたのだろうか。
 戦争を悲劇や愚行としてとらえるのは当然であるが、遙か歴史の彼方の戦争はいざ知らず、近代の戦争、特に第二次大戦や太平洋戦争などに関しては、戦争を引き起こした悪とそれと戦った正義という「正義対悪」の図式が多かった。いわゆる国連(英語では連合国である)史観と呼ばれるもので、日本やドイツなど敗戦国で描かれる映画や小説ですら、国連史観に基づいた反省が盛り込まれていないと評論家からたたかれるほどである(苦笑)。
 ところが、このような「正義対悪」の単純な図式で物語を作ると現代では恥をかいてしまう。その契機になったのはベトナム戦争である。
 この泥沼のような戦争で、アメリカの若者たちは、自分たちの国が正義で、守ってあげた国から感謝される、という第二次大戦の頃のような幻想は抱けないことに気づいてしまったのだ。戦争とは、「正義対悪」ではなく、「正義対もう一つの正義」ということ
 さらにイスラエルの入植を機会に始まった中東戦争。イスラエルとパレスチナの終わりのない戦いは、憎しみによる復讐が新たな憎しみを呼ぶ、という「憎しみの連鎖」であるという事を人類に教えてくれた。

 今、戦争に関して物語を作るとすれば、この「正義と正義の衝突」「憎しみの連鎖」とい二点の視点を欠いた作品は同時代性を欠いた極めて幼稚なものになってしまうのだ。

 この点、日本のアニメなどのエンタメは敗戦国であったということもあり、早い時期から悪とされる側にも事情がある、という視点は持っていた。ガンダムで言うならば、ジオンにはジオンの正義があるってことね。
 アメコミでも、大戦中は日本軍やナチスと戦っていたキャプテンアメリカが、ベトナム戦争以降は、製作者スタン・リーの奇跡的な手腕でこの「正義と正義の衝突」に気づいて路線変更した。(このあたりは小野 耕世さんの著作を参考にしてください)

 どうしても単純に多くの敵を倒していく爽快さを求める作品の場合、その敵は、無慈悲な宇宙人(インディペンデンスデイ)や、人類を支配しようとするコンピューター(ターミネーター)や、知性のない虫の大群(スターシップトルーパー)になっていった。今、ハリウッドのSF映画で大量に殺戮されている、これらの敵たちは、以前はネイティブアメリカン(西部劇)であり、日本軍やナチス(戦争映画)であり、中東系のテロリストであったのである。

 これが、作品の同時代性という事なのだ。

 太平洋戦争を語るのならば、悪い敵国の兵隊を倒して我勝てり、ではもう幼稚すぎるのである。
 現代で、太平洋戦争を舞台にした作品を作る場合は、物語を通して主人公が、この戦いは「正義と正義の衝突なのだ」と気づく、というのが現代的な描き方なのである。
 その好例が、C・イーストウッド監督が、アメリカ人に向けて語った、「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」の二本の映画であろう。前者は、戦争宣伝に翻弄された兵士の回想で、アメリカ人の「正義」に皮肉な目を向け、後者はアメリカとは「別の正義」で愚直に戦った日本兵を描いて「正義の衝突」を見せている。
 これこそ、現代の戦争の描き方だと思う。

付記)
実は、この「イカロスの翼」(仮)を構想する思考実験の最中に、「ドローン・オブ・ウォー」(2014年米映画)を知った。
どれほど、発想の内容かぶってるだろうかと心配したが杞憂だった。
映画の概要は、
ラスベガス近郊のアメリカ空軍基地に置かれた空調の効いたコンテナの中では、トミー・イーガン少佐が遥か一万キロ彼方のアフガニスタン上空を飛ぶMQ-9 リーパー無人攻撃機を操縦し、モニターに映るタリバン兵をヘルファイアミサイルで音も無く吹き飛ばしていた。戦闘機パイロットだったトミーは、命の危険は無いが戦っている実感が伴わない任務や基地と自宅を日帰りで往復する日常に拭い切れない違和感を抱いていたが、彼の操縦の腕を買っている上司のジョンズ中佐の意向もあって異動願いは中々受理されなかった。さらに、新たに配属された女性操縦士スアレスのCIAが主導する対アルカイダ極秘作戦への異議の言葉も加わり、次第に彼は精神的に追い詰められていくようになる。
ドローンはまさに神の視点で、定点観測している村にいつも来るテロリストが特定の娘をレイプしている光景まで観測している。
ラスト、異動の直前に、主人公はそのテロリストを殺すのだが、まるで神が雷を落とすがごとき行為に苦い感を抱く。
この「神のつもりで天罰を下す」資格が俺にあるのか?という気持ちが、まさに世界の警察を気取って外国で軍事行動をする資格が米国にはあるか? の暗喩になっていて見事だと思った。
日本人にとっての戦争は、海の向こうの出来事だが、米国民にとっての戦争はいつでも自分に降りかかる日常なのである。
その戦争観の違いこそが、同じドローンをモチーフにしても違う物語になる理由であろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?