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まえばし心の旅044:朔太郎

前橋市のキャッチコピー「水と緑と詩のまち」の中で、「詩(うた)」の代表は、萩原朔太郎であることは疑いないだろう。詩壇における朔太郎の存在は、口語自由詩という近代詩の新しい地平を開いたという大きな功績があり、それ故に「日本近代詩の父」と称されている。では、前橋にとってこの偉大な詩人の存在は、どんな意味があるのだろうか。

 一つは、当時の前橋を彼自身の視点で切り抜き表現して残したこと。そしてもう一つは、彼自身の詩作以外の活動にもあるのではないか。

 朔太郎の詩には、前橋を題材としたものが多い。例えば「広瀬川」はまちなかを流れる広瀬川を詠い、そこに自分の人生や苦悩を投影している。「中学の校庭」は、今の前橋中央病院とのころにあった旧制前橋中学が舞台だし、他にも大渡橋や敷島公園など、地元を題材にした多くの詩を詠んでいる。

 また、朔太郎は当時としては珍しかったカメラを持ち、いろいろなところを撮影している。その写真を見ると、その場所の当時の様子を見ることができるし、かつその場のその後(ご)の歴史に想像がはたらく。

そうやって朔太郎が残した詩や写真を見ると、そのころの前橋の様子を見ることができる。それと同時に、その景色を見た朔太郎の心持ちが伝わってくる。特に詩は、作者の心のフィルターをより色濃く反映しているのではないか。それらの作品は、歴史的な客観的な資料でもあり、それと同意に朔太郎の内面の履歴書でもある。

 朔太郎は詩人以外に、音楽家としての一面もあった。子供の頃からハーモニカやアコーディオンを楽しんでいたというが、とくにマンドリンは、人に教えたり、「ゴンドラ洋楽会」という団体を組織したりし、演奏活動をしたことが記録に残っている。

また、「機織る乙女」という曲も作曲した。この曲は前橋文学館に行くと聞くことができるし、私もマンドリン用に作曲されたその曲をお箏に編曲して、演奏もしている。そういった精神は、群馬マンドリン楽団をはじめとする団体に伝えられていると思うし、前橋マンドリン楽団や市内の高校にギターマンドリン部などがあったり、「朔太郎音楽祭」が今でも開催されていたりするのは、朔太郎の活動が端緒であろう。

 また、今でも前橋のまちなかを中心に、朔太郎の息遣いを感じることができる。生家の跡はマンションになってしまっているが、建物の一部は前橋文学館の近くに移築されているし、そのすぐ近くには「広瀬川」の詩碑がある。そしてそのあたりは、まさに朔太郎が日々歩いたであろう川縁だし、前橋公園やるなぱあくにも、朔太郎が遊んだ姿を想像できる。そこをあるけば、朔太郎の人生を疑似体験し、その詩が詠まれた世界を実体験できる。残念なのは、東照宮境内で北原白秋と出会った木が伐採されてしまったり、室生犀星が止まった一明館の建物がすでに解体されてしまったことだ。それらが残っていたら、文学史上の聖地となっていたであろう。

 ただ、朔太郎の詩の世界は、とっつきにくい。スタートは良いのだが、読み進むに従いその世界観は出口のない迷路の様に見えて、やがて理解の暗闇に包まれてしまう。それは、彼自身が抱えている悩みや苦悩、精神的な生きづらさの現れかもしれない。朔太郎は昭和17年5月に東京で亡くなっている。その3年後と3ヶ月後、彼の故郷は、アメリカによって灰塵に帰した。もし朔太郎がそんな前橋を見たら、その精神はどうなっていたのだろうか。

 とかく、政治や経済で成功した人の名が残りやすい世の中。目には見えないが、自らの精神を表現し、故郷の歴史を彩った朔太郎の様な人に、もっと光があたる世界になってほしい。

令和4年3月9日

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