見出し画像

まえばし心の旅043:前橋の由来

何気なく毎日の様に使っている「前橋」という地名、由来はなんなのだろうか?「前橋」の名前の歴史を紐解いてみると、1649年ころ、「厩橋(うまやばし)城」の名前が「前橋城」に変わっている。この頃の藩主は、後に大老になり、「下馬将軍」と呼ばれた酒井忠清で、まだ3代将軍徳川家光の家臣であったころだ。

 もう少し遡ると、1571年、越後の北条(きたじょう)氏が前橋一体を支配し、八幡宮に対して「当地厩橋八幡宮」との書面を発行した。これが「厩橋」と明記された最初の資料とも言われている。もし現存していたら、是非見てみたい。

 ではなぜ厩橋となったのか?諸説あるが、一つの説を紹介したい。この説は、私の母の同級生で、医師でもある小野久米夫さんの研究を参考にしている。律令制の時代、近畿地方から五畿七道をつなぐ、いわば国道が全国に整備され、群馬県にはそのうちの「東山道」が通っていた。その道は発掘などにより場所が推定されているが、関越自動車道と染谷川が交わる辺りの「鳥羽遺跡」や総社地域を通り、県庁南にかつて存在した「九丈濠(くじょうほり)」に達していたという説がある。そうすると、東山道はざっくりと、総社神社の北側や、県庁の南あたりを通り、国道50号に抜けていったと考えられる。

 そして、その道には約16km毎に「えき」「いえ」と書く駅家(うまや)が置かれ、今の県庁あたりに「群馬駅家(くるまのうまや)」があった。そして、この群馬駅家は、役所的な機能と古代利根川や古代風呂川などの水運の拠点、そして東山道の陸上交通とそれらの水運を結ぶ交通の要所であったのではないだろうか。ちなみに、「くるまのうまや」の由来は、古来の「車川(くるまかわ)」が関係して来るかもしれないが、ここでは割愛させていただく。

 平安時代に編纂された百科事典の様な資料である「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に、「駅家(うまや)」という地名が見られる。これがおそらく群馬駅家の所在地一帯の地名ではないか。そして、その周りには複数の川が流れていて、それらを渡る橋が数本かかっていたので、その地域は橋の存在感が強かったのだろう。そこから「うまや」と「はし」が結びつき、「うまやばし」となって来たと考えられる。

ここからは私の推測だが、その後「駅家」の「えき」「いえ」の漢字がやがて馬小屋の意味を持つ「厩(うまや)」に置き変わってきた。実際に、駅家には、厩舎(きゅうしゃ)があったという。そしてその発音も、多くの人が長年にわたって話し続けるうちに、「うまやばし」や「うまやはし」から「まやはし」に変わって来て、更に「まえばし」に転化し、漢字と発音の乖離が生まれてきたので、それらを整合させるために、「前」の漢字を当てはめたのではないだろうか。

 この説をとれば、前橋につながる地名は、律令制の時代の「うまや」と、川の「はし」が由来の、いわば人工と自然発生のハイブリット地名ということができ、ルーツは千何百年も遡る。なんと誇らしい名前ではないか!

 そして、先日リスナーさんから番組にメールをいただいただき、「まえばし↑」か「まえばし↓」かのイントネーションにこだわるだけでなく、「まいばし↑」にしなくっちゃ「大したことない〜」というご指摘をいただいた(笑)。大変不勉強で申し訳ないのだが、私は自分の実感で、あんまり「まいばし↑」の経験がない。

 いずれにせよ、「前橋」の名前の歴史を紐解くと愛着が深まるし、私同様に、こだわりを持っている方がいるのはうれしい。

放送日:令和4年3月2日

音声データはこちらからお楽しみ下さい。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?