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私の夢は、私のお葬式で君にフラスタを出してもらうこと


 4月、おじいちゃんが死んだ。

 比較的円満な死だった、と思う。


 2月には80歳のお祝いで、一族10人以上で集まってお祝いをした。 

 入院していたところを本人の希望で在宅医療に切り替えて、おばあちゃんが付きっきりで全部のわがままを聞いて世話をした。

 4月にはおばあちゃんの誕生日会でまた集まって、小五の孫が作ったケーキを食べた。
 それが最後の食事になった。


 連絡があって駆けつけた時には、自宅のベッドでまだあたたかくて、寝ているようだった。

 介護ベッドは寝返りをうてない人用に上下左右に順番に空気が入って斜めに持ち上がるようになっていて、空気の注入音が丁度呼吸みたいで、おばあちゃんは何度も「息をしている!」と言って母に訂正されていた。本当に、寝ているだけみたいだった。

 お葬式は近しい親戚のみで行った。
 信仰深い人でもなかったので戒名もつけず、こぢんまりやろう、ということになった。

 それでも、祭壇には色とりどりのお花が飾られて、脇には祖母や母や叔父の名前が書かれた白黒の花輪(フラスタだ!って思ったんだけど、どうやらフラスタとは呼ばないらしい。花輪とかスタンド花というんだって)がいくつか立っていた。

 私が人生で見たなかで1番たくさんのお花が集められて飾られていた光景は、ひいおばあちゃんのお葬式だった。

 96まで生きた彼女のお葬式は、悲しみというよりかは思い出話に花を咲かせて見送るような、穏やかで和気藹々とした雰囲気だった。

 祭壇には天井まで壁一面、と言っていいくらいに、お花がぎっしりと飾られていた。

 綺麗だった。

 お葬式は、生まれた時よりお誕生日よりもっと、綺麗なお花に囲まれて、生きていた中で出会った人たちがわざわざ集まってくれる日だ。

 人生は物語に例えられることがあるが、その結末は必ずしもハッピーエンドとは限らない、と思う、し、自分自身の人生について言えばまあおそらくハッピーエンドではないだろうという謎の確信がある。



 葬式というのは無理矢理こじつけられる手作りの後日譚なのだと思っている。

 本編である人生の紆余曲折は人の手の及ばないことも多いけれど、ここだけは、後日譚だけは、人間が思ったように形作ることができる。



 高校の卒業式で、聖書科の先生が言っていた。
 「人生は片道切符などといいますが、皆さんが生きているのは、復路です。ひとは神様のところからこの世界に生まれて来て、長い時間をかけて神様のところに帰るのです」というようなことを。

 死んだらあの世とか天国とか地獄とか、神様みたいな超越的な存在が支配する領域に帰るのなら、お葬式はその前最後の一幕であり、そして限りなく人間の領域だ、と思う。

 人間による人間のための空間。


 科学が進歩し、解明できない、科学という文脈で説明できない事象は格段に減った。

 生活とか文化の中で、人間が踏み込めない・踏み込んではいけない・或いは混ざり合って曖昧な領域は削られていっているように思う。


 カメラの進歩で、心霊写真はめっきり減ったらしい。

 給食で「いただきます」と言うのは当たり前でなくなったらしい。

 神様とか仏様のことを考えるのはトイレに行けない場面でお腹が痛くなった時だけらしい。

 なんでもスマホで指一本で調べられるし、スマホさえあれば楽しめるし、液晶画面の中で殆どのことが完結させられるらしい。

 それでも、ひとはお葬式を開く。
 科学という文脈の外のものが軽んじられがちになった今日でも、ひとはお葬式をちゃんと開く。
 
 なんかよく分からなくても葬儀社に頼んで、なんかよく分からなくてもお坊さんを呼んで、なんかよく分からなくてもあげたことももらったこともないくらいの量のお花を飾って、そして泣く。
 もう死んでいるのに言葉をかけたりする。
 好きだったものとかお手紙を一緒に燃やしたりする。

 語弊があるかもしれないけれど、私は、お葬式という空間が、好きだ。

 人の手による、人の手の及ばない領域を前提とした儀式という構図が愛おしいから。
 とても人間らしいと思うから。
 精一杯の幸せな後日譚は、美しいと思うから。

 おじいちゃんは、お世辞にも完璧な人格者ではなかった。
 あまり詳しくは書かないけれど、とても頑固でわがままだったし、おばあちゃんを振り回しっぱなしだったし、とにかくお酒に呑まれていた。

 一族の女性陣が集まれば愚痴大会が開かれ、「くそじじい」などと呼ばれていた。

 それでも、お葬式では愚痴大会は開かれなかった。
 仲が悪く親戚の集まりにも殆ど姿を現さなかった長男まで泣いていたし、悪行のエピソードも笑い話になっていた。
 みんな、なんだかんだ別れを惜しんでいた。


 まあ、そうでないお葬式も、きっとある。
 ということも承知した上で、自分には両方の可能性がある、と思っている。
 近いうちに、若いうちに死んでおけば、人とのつながりもそれなりにあって、集まってくれる人がいて、お葬式はハッピーな後日譚になりうる、と思っている。

 ダラダラと長く生きれば、おそらく孤独に死ぬ。
 頼れる親戚ももうおらず、仕方なしに引き受けた誰かが面倒臭がりながらマニュアルに沿って行う、抹消のための手続きになる。

 お葬式がハッピーな後日譚なうちに、死にたいな、と思う。

 おじいちゃんのお葬式で1番印象に残ったのは、花入れの儀式だった。
 祭壇に飾っていた供花を、参列者が棺に入れていく。

 最初に喪主であるおばあちゃんがお花を取って、おじいちゃんの頬の横に置いた。頬を撫でて、数秒、涙を流した。

 あの時きっと、二人は見つめあっていたんだろうな。

 一巡目は故人の近しい人から順に一人ずつ入れていくんだけれど、それが終わったら順番とか関係なく、とにかく沢山あるお花が無くなるまで、足元まで全部、お花で棺をいっぱいにする。

 とても綺麗だった。

 お花が全部無くなったら、みんなで棺に蓋をする。そして、棺は燃やされる。

 これがきっと、人生で最も美しいシーンだと思った。

 人生で最も美しいシーンは、人生が終わったあとに、人の手によって作られる。

 去年の誕生日、私はアイドルだった。

 誕生日には、ソロ曲とMVがもらえることになっていた。
 私は我儘を言って、自分が入るための棺桶を作ってもらった。

 自分と一緒に棺桶に入れたのは、今までいろんな人に貰って捨てられずにいたお花たちだった。


 今年の誕生日、私はもうアイドルではない。
 誕生日にイベントなんてやらなくていい。
 誰にも求められてはいない。

 けれどなぜか今年もイベントを開き、お葬式の予行練習をする。

 それはそういうことだ。

 自分のお葬式を、走馬灯に入れたかったから。
 私が君たちの記憶にあるうちに死んでしまえば、お葬式は手作りのハッピーな後日譚になるから。

 出来ることなら本番もそうなればいいと思う。



 私はキリスト教を信じているけれど、お葬式はみんながやりやすい形でいいよ。

 遺影は笑顔とかどうでもいいからとにかく盛れてるのにしてください。(1番いいねが多い自撮りにしよっかなとか言ったことがあるんだけど、このままだとすっぴんカマキリになっちゃう!どうしよ)

 私が好きな曲を流して欲しいな。
 低音しっかりめでお願いします。

 納棺するもの、最後だから、手作りのもの、生ものも、OKにしちゃいます!

 好きな花、教えとくね。百合、彼岸花、霞草、薔薇、蘭。なんでも好きだけどね。

 私の夢は、私のお葬式で君にフラスタを出してもらうこと。

 叶えてくれる?

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