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青春コンプレックス

青春という概念

映画で描かれるようないわゆる青春じゃなくても、そんな理想との乖離も含めて、十代の日々は青春と呼ばれたりもする。
「青春っぽいことなんてなかったな」とか言うと、「いやいや、それも含めて青春なんだって〜」なんて言われたり。    

でもやっぱ欲しいのは、キラキラした、ちょっと酸っぱくて痛いようなこそばゆいような青春じゃないですか?

開いた窓から風が入ってきてカーテンを膨らませる、前の席の子の髪が微かに揺れる、そんな風景じゃないですか?    

イタイかもしれない。分かってるんですけど。

だってもう青春があるはずの時期は終わっちゃったんです。

青春って、制服を着てるあの数年に過ごすものじゃないですか。    

生活とか生き方の多様性は、そのまま幸せ形の多様性も意味する。
そう、今更「幸せ」の型なんて必要ないのだ。

ともすれば「青春」のための条件(年齢とか肩書きとか内容とか)なんてもうないし、青春という概念は拡散しきって定義づけることもできない。
いや、むしろもう青春なんて言葉自体が不要なのかもしれない。  

それでも私は、ステレオタイプな青春が捨てられない。      

中学生になった頃から、人と関わりを作るのがとても苦手になってしまった。
ちょうど、私の考える青春とやらが始まるはずの年齢だった。

どう思われているのかわからない
空気が読めない
これ言ったらわらってくれるかな
賛成しないと空気悪くしちゃうよな
考えれば考えるほど、人と触れ合うのは難しい。
むしろ、なんでみんなあんなに近づけるんだろう。なんで楽しそうなんだろう。なんで悪口言って言われて、それでも一緒に居続けることを選べるんだろう。ふしぎだ。

いつでも俯瞰するような癖がついてしまった。
主人公の一人になれない。
合唱コンクールで指揮者をやった。
(一番盛り上がる行事だった)
行事は好きだ。否応なしにクラスの子たちと関われる。嬉しい。
指揮者賞とか3位とか2位とか、結果も付いてきた。
みんな嬉しそうだったり悔しそうだったり泣いてしまったり手を取り合ったり。
すごいなあと見ていることしかできなかった。
あの光景は、今でも頭の中でとっても鮮やかだ。
それなのに、現実として残ってるのは居心地悪そうに写ってる集合写真だけだ。

いつも、そんな記憶たちを脳内で反芻してばっかりだ。
このステージをクリアしないと次には進めないのか?

とはいえ、たぶん、今時間が巻き戻って中学か高校かに戻っても、私は私の求める青春なんて手に入れられない。
それでも、と思ってしまうんだよな。    

気付いたらもう十代もあと3ヶ月半だって。

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