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好かれるとは恐ろしいことだ


好かれるってとっても不安だ。こわいことだ。
好きって言われると不思議な罪悪感で胸がぎゅっとしてしまう。

毎秒私は新しく何かを経験して何かを取り込んで、すでに吸収していたものは経過時間分だけ古びて劣化するか熟成されるか発酵していって、私を更新していく。

小学生の時の私と大学生の私は違うし、
去年の私と今年の私は違うし、
昨日の私と今日の私は違うし、
あの出会いを経験する前の私と後の私は違うし、
あの喪失を経験する前の私と後の私は違うし、
という具合に、つまり、少しでも過去の私と今の私は違う。

今今と、今というたび今はなく、今というたび今はなくなる、みたいな川柳ありましたよねたしか。

今がゲシュタルト崩壊しかけましたね。


それがどんなに些細でも、ただの時間の経過さえも含めて、それらあらゆる「経験の追加」が私を更新する。
それを経験した私と経験していない私とでは明らかに何か違うのだ。たぶん。

それともう一つ。
私がそれを経験したと知っているあなたから見た私と、私がそれを経験したと知らないあなたからみた私でも、これもまたきっと違う。

たとえば、じつは私は年齢詐称をしていて二十歳じゃなかったとしたら?
たとえば、じつは私はとっくに大学を中退してフリーターになっていたとしたら?
たとえば、じつは私は母になっていたとしたら?
たとえば、じつは私は病気とたたかっていたとしたら?
たとえば、じつは私はひとにトラウマを植え付けるいじめっ子だったとしたら?
たとえば、じつは私はひとを殺したことがあるとしたら?

そしたら、やっぱり好きは変わってしまうのだろうか?
好きになったときに見えていた面とは別の面に、好きを打ち消すくらいの好きになれない要素が見えたら、好きは消えてしまうかな。

あるいはそれでも、今見えている私のことが好きならば、そこにじつは何が含まれていようとそれも経て結果好きになった私が形成されたのには間違いないのだからやっぱり好きなのかしら?
人殺してても?ほんとに?

それは大げさな話なんだけど。

でも、そういうことじゃないですか。

好きになるということは、その人の、今見えている部分を好きになるということ。それに過ぎないということ。
未来も分からなければ、過去も分からない。

だからね、ひとは、さっきみたいな、相手にとっての「たとえば」を無数に背負って好かれるものなんだと思います。
というか、ひとは、相手が背負う「たとえば」の重みを自分が背負って、好きになるのだと思います。
それを意識しているひとはあんまりいないような感じもするけど。

だって、相手が自分の全てを知っているなんてことないじゃないですか。
ある程度重要そうなことだって、最初から全部提示して、それで好かれるなんてこともないじゃないですか。
だから、あなたが好きな人、人殺しかもしれませんよ。

私が怖いのは、私が持つ、相手にとって許容できない「じつは」の存在です。
私はひとを包丁で刺したこととかないけど、あったらなるべく言うようにするけど、なぜならひとを刺したことあるかどうかはその人を好きになるかどうかにけっこう影響を及ぼすと思うから。
でも、もしかしたら、今まで言ってなかったけど、私がじつは家でご飯食べるとき椅子の上であぐらかきがちなこととか、
ちっちゃいときすごい太ってたこととか、
おへその形があんまりよくないこととか、
そういう、私はたいした影響を及ぼすと思ってないからみんなに言ってないことが、あなたにとっては重要な要素かもしれないじゃないですか。
つまり、私は今おへそのせいであなたに嫌われたかもしれないってことです。かなしいな。

あなたから見えていない、あなたに見せていない私は、あなたに好かれるに値するのでしょうか。
あなたに見せていない私は、あなたが嫌いになる私かもしれない。
この私のことはあなたは好きかもしれないけど、
あなたに見せていたのがあっちの私だったら、好きにならなかったかもしれない。
それが、こわい。

ここを見せていたら嫌われるはずだったのに、それを無自覚に隠しているお陰で好かれているのではないか。
これを知られたら好きじゃなくなられるのではないか、の恐怖と、
これを知られていたら本当は好かれることはなかったのではないか、のもっと大きな恐怖。

怖い、怖いな。

だから、好かれるとは恐ろしいことです。

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