アフリカには飲み水に困る人々がいるけれど私はそこへ行って井戸を掘らない

 中学生の頃、社会の授業で「都市部の過密化と地方の過疎化や高齢化が問題になっている」「自分も大人になってから東京に来た」と話す先生を見て、「どうしてこの人は悪びれもせずこんなことを言えるのだろう」と本気で思った。
 大学生になっても、「私はお化粧が好きだけれど女は当たり前に化粧をすべきというのは違うと思っている。お化粧したい人がしたいお化粧をできるようになると良いなと思う。」という私の言葉に頷いたすぐ後に「でもうちの妹はさすがに女子力なさすぎるよw」なんて言う人を見てどういう理屈で話しているんだろうと不思議に思った。

 つまり、私は、「社会の問題」を「個人の、自分の問題」にそのまま置き換えられない人間の思考が理解できずにいた。同じ話じゃないか、社会レベルで正しいことは個人レベルでも正しいし、逆も然りだろう、と。

 さっきの話だけれど、後者は未だにわからない。いや、正直間違っていると思う。性別よりも自分のいたい姿でいることを尊重する社会を肯定するのなら自分の妹にもそれも肯定しろよ、どうして別のお話になってしまうの?と思う。
 けれど少なくとも前者はきっと、そんな簡単な話ではない。背景に様々な問題や理由があって彼女も東京に出てきたのだろう。それがその頃の私には分からなくて、上京してきたのはともかく、それに罪悪感すら持たないのだろうかと、その先生が少し好きでなくなってしまった。

 極端で潔癖な正義感はおそらく私の気質だ。性格を超えた、それよりもっと原始からあるベースだ。人生を21年やってきて、「たとえ明らかな正しさでも、それが同じように全ての人に当てはまり、全ての人がそれに適う行動をとるべきであるという理論は必ずしも正しくない」ことは少しずつだけれどすでに分かってきた。
 たとえば「海洋汚染が社会問題になっているね。けれど私は海辺でBBQしたあとゴミを置いていくよ。」は明らかに間違っているけれど、「一次産業の担い手の跡継ぎ不足が社会問題になっているね。けれど私は実家の農家を継がないよ。」は間違っていないかもしれない。
 わたしだって「アフリカには清潔な水を得られない地域があるね。けれど私はそこに行って井戸を掘らないよ。」だから。
 それに気づいてしまったとき、私はとてもショックで悲しかった。私は私の正しさに従って生きることすらできないのか、いや、できないじゃない、しないんだ。私は正しいことを知っているのにそれをしないんだ、正しくないことを選択してしているんだ、毎秒罪を重ねて生きているということじゃないか!と。

 私がアフリカに行かないのは、今の生活を捨てたくないからだ。今の生活と、今の生活の延長線上にある希望を捨てたくないからだ。
 天秤の、正義のもう一方のお皿に乗っているのは不義や間違いや悪とは限らないのだと思う。いや、それはそうかもしれない。そういう場合も大いにあるだろう。
 けれど私たちが行動を選択するときの天秤にあるのはそもそも正義のお皿ではないのかもしれないと思う。多分、天秤を揺らすのは、「正義」そのものではなく「正義を遂行したい感情」と、「悪」ではなく「正義を遂行することで損なわれてしまう利益を求める感情」だ。
 私には「社会が目指すべきものはそのまま私個人も目指すべきだ」「正しいと思う行動をとりたい」「水がなくて困る人々がいることは正しくないから水の供給を助けるという正しい行動を選択したい」という気持ちが左のお皿にある一方で、「周りにいる幼馴染や親しい人たちから離れたくない」「自分が可愛いと思える容姿に近づく努力や作業を続けていたい」「まだ心理学を勉強したい」「ウォシュレットがある綺麗なトイレを使っていたい」という気持ちも右のお皿にある。そして天秤は右に傾いている。だから私はアフリカに行かない。それは、悪ではない、きっと、きっと。いや、分からない。

 とにかく、こういう風に、各々の中に天秤があって、行動を選択するたびに「正義を遂行したい感情」と「正義を遂行することで損なわれるものを求める感情」のどちらか重い方が選択されるのだと思う。ただ、その人にとって重ければそれが正解、とも限らない。
 だから、「一次産業の後継問題を憂う感情」より「自分が叶えたい夢のために違う職に就きたい感情」が重んじられるのはきっと間違っていないけれど、「海洋汚染問題を憂う感情」より「片付けが面倒くさい感情」が優先されるのはどうなの、本当にそっちの方が重たいの、となる。
 つまり、殆どの個人の行動は当人以外の何かに影響を与え、すると自ずと社会や他者からの視線や評価が生じるものだが、中を覗けば実際は個人の中にある選択肢には社会なんて登場していなくて、どちらも結局は「個人の感情」なのだ。ただ、どちらが社会的に正しいとされているかというだけの話だ。

 コロナが流行っている(って言い方を私もするんですけどずっと少し引っかかっていて、新型コロナウイルス感染症って言いたいなと思っている。言葉や正しさが好きなので。今はこの話ではないのですが。)けれど、私は外出する。学校に行くし、お化粧品を買いに行くし、新宿や西永福でライブをするし、大阪でライブをしようとしている。
 どれも、右のお皿が沈んで然るべきだろうか。

 「学校に行かないことで受ける損失を避けたい感情」は「自分や周囲の人のためにコロナ対策をすべきという正義を遂行したい感情」より私の中では重たいし、おそらく多くの人にとってそうだろう。そうであることを社会は許すだろう。
 ではお化粧品を買いに行くのは?「生活必需品でない趣味のものを買いに行きたいという感情」は、「コロナ対策をするという正義を遂行したい感情」より重たくていいのだろうか。重くて然るべきだろうか。
 もしそうではなかったとして、ではコスメブランドの売り上げが落ちてコスメカウンターの店員さんたちの立場が危うくなるのは然るべきことだろうか?経済が停滞するのは然るべきことだろうか?
 「正義を遂行したいという感情」と「遂行することで損なわれるものを求める感情」で揺れる天秤は実はそれだけで独立しているわけではなくて、「正義を遂行したいという感情」のお皿が沈めば、「また別の正義を遂行したいという感情」は自動的に軽んじられて棄却されたことになってしまったりする。まったく当たり前なんだけれど、おかしな話だ。

 それから、同じ行動であってもそれにまつわる感情の重さは人によって違う、という当たり前のことも重要だ。たとえば私はみんなでお酒を飲んで盛り上がることにそこまで楽しみを見出さないから「居酒屋で飲み会をしたい感情」は「コロナ対策という正義を遂行したい感情」より重くない、と思って自粛している。けれどお酒を飲みながらワイワイすることが日々の生活の中で指折りの楽しみだった、という人もいるだろう。その人にとっては「居酒屋で飲み会をしたい感情」の方が重たい、かもしれない。だから人数や声量に気を配りつつ居酒屋に行くかもしれない。それを私は間違っているとは思わない。違う重みを持っているのは当然だ。

 では、ライブはどうだろうか。電車で乗り換えを数回して、2メートルより密集したお客さん達の前で歌を歌う。「来てください」と言う。
 夜行バスに乗って県境をいくつも越えて500km離れた地で歌を歌う。「来てください」と言う。

 これらは、正しいだろうか?あるいは、正しくなくても正しさよりも重たいと言っていいことだろうか?
 「これでいいのか分からない」「分からなくていいじゃない」なんて歌いながら、今の私は本当にそう言っていていいのだろうかと考える。だって「これでいいのだって言え」ずにいるのだから。
 けれど時間の経過は「これでいいのだって言えるまで付き合いましょう」と言ってはくれない。
 私は若さを失っていくし、学生の身分はじきに終わるし、私のツイートにいいねをくれるひとのいいね欄には知らない女の子が増えていく。興味なんて無常で、ちょっとしたタイミングのずれや弾みで簡単に移ろいでいくものだ。そのほかにも、色々。


 私の天秤は、右も左も山積みで、もう天秤もろとも全てが崩れてしまいそうだ。よりよい選択を求めて思考するほどに「こちらが沈むべきだ」と主張する重りが左右それぞれのお皿に積まれていく。
 誰の楽しみも奪いたくない。誰の期待も裏切りたくない。誰にも仕事を休ませたくない。自分の正しさを矛盾させたくない。誰も殺したくない。
 どれを選んでも誰かにとってはきっと正しくない。どれを選んでもごめんなさいと謝り倒すしかない。考えるほどに謝らなければならない人が増えていく。
 それでも、考えるのを辞めたら、きっと私は死んでしまう。
 アフリカに行って井戸を掘らない私だけれど、遂行したい正義くらいある。

 でもね、こんなに考えたって、私は何も変わっていなくて、この文章だって書き始めから終わりまでお風呂に入りながら姿勢すら変わっていなくて、メンバーにも運営にも大した話はしないし、誰とも繋がれない何も動かせない脳みその無駄な部分だけが肥大して重くなっていくみたいです。
ごめんなさい



引用元:FUTURE IS MINE 歌詞
(読んでくだされば分かると思いますが、この曲自体に否定的な意図を持っているわけでは決してありません。)

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