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舞台と断絶

 表現すること、特に舞台に立つことについて。

 私には一つのイメージがある。

 「一人一人との間にある大小の断絶を全て集めて一つの絶対的な断絶にして、ステージとフロアの間に敷く」のだ。


 説明する。
 (私はこういうお話を他者にしようという時、まどろっこしくしてしまうので、大抵途中で「いや、それはさ」と笑顔で訂正を入れられてしまって、そこで諦めてしまうのですが、ここでは最後までお話したい。我慢強く物好きな皆様は、良かったらお付き合いください。)
(とは言いつつ、最後まで読んでいただいてもきっと浅はかで表層的です。すみません。)

 私は、よくひととの間に「断絶」を感じる。

 大きな断絶。
 例えば、精神疾患を持つ人や自傷行為をする人をキチガイと呼ぶこと。
 自分(側)の都合や利益のためなら、強い言葉で押し切ったり嘘を吐いていいという思想。
 きっと一生忘れられないね。
 小さな断絶。
 例えば、他者の家にキャリーケースをそのまま転がして入ること。
 例えば、お酒を飲めないひとのいる食事の場で、気にせず飲酒し当たり前に割り勘をする感覚。
 例えば、何も断りもなく、運ばれてきた唐揚げ全部にレモンをかけること(私は特にレモンの有無にこだわりはないです)。

 関わりを持ち始めた当初は知り得ない、簡単に言うところの「価値観の違い」・「習慣の違い」・「思慮の違い」みたいなものたちに直面してしまった時、どうしようもなく深い溝が両者の間にあるのに気づいてしまったような感覚になる。
 その溝の幅は様々なんだけれど、深さはどれもどうしようもなく深い。うっかり足を突っ込めば捻るか嵌るかしてしまうし、うっかり覗けば絶望してしまうかもしれない。

 そんな断絶に、両者が同時に気づいて、同じくらいの重大さを感じることができれば、それはわりと平和、というか平穏な出来事に終わる。
 二人ともが、大したことないとか少し話してどちらかが譲歩できるとか感じれば、ヒールなんかを履いた時にうっかりヒールが刺さって躓かないように気を付けさえすれば、その細い溝は二人にとって大した障害物にならず、今まで通りやっていける。
 一方で、二人ともが、それは自分にとって重要な要素で、妥当性について話し合うとか歩み寄る余地がないと感じれば、二人は離れることになる。それ以上近づかないで、断絶を超えていこうと考えなければいい。これもまた、自然で平穏。

 困ってしまうのは、同じ断絶に一緒に気づいて一緒に見つめられないときだ。

 たとえば、もし、私だけがその断絶に気づいてしまったらどうしよう。

 帰り道、私は君の半歩後ろを歩いている。信号が目の前で赤に変わる。車はまだ横切らなさそうだと判断したのか、君は振り返りもせずそのままの歩調で横断歩道を渡る。
 「この人は、自分以外の人間を信号無視させていいという思想の持ち主なのかも」
 「他者に『社会のルール(というかなり単純な正しさ)を守る権利』をあまり感じていないのかも」
 「信号を無視した自分の後に続いたひとに何かあった時のことまで考えないのかも」と思う。

 拡大解釈かもしれない。大袈裟かもしれない。
 けれど私は勝手に、どうしたってそこに小さいけれど確かな断絶を感じてしまう、というか、ずっとそこにあったらしい断絶の存在に「気づいてしまう」。
 だって、私は信号無視はあまりしたくないし、それは尊重されたいし、されるべきだと思うし、その上でももし君がしたいとかしてもいいと思うなら、せめてちゃんと振り返って、手を繋げよって思う。それってわがままなんですか。

 横断歩道の中ごろに差し掛かった君が、少し離れた私を振り返る。私はいつも通りトロいだけだと思われたかもしれない。
 けれど、これは絶望的な瞬間だ。
 私だけが、気づいてしまったのだ。君との間にある断絶に。
 君は気づかないから呑気な顔か、半笑いで私を待つ。待ってくれる優しさと、他者を同意なく信号無視させていいと考える価値観のズレは全く別の次元にあるから、プラスマイナスみたいな話では片付かない。


 断絶には、おそらく三つくらいの相違からくるものがある。ベンザブロックみたいだね。喉から来る風邪、鼻から来る風邪、あと一つは忘れちゃった。

 一つ目は、その人のその事柄についての認識の有無。つまり、有か無か。
 二つ目は、その人がその事柄について認識する重大さ。つまり、その量。
 三つ目は、その人がその事柄について認識する意味の種類。つまり、その質。

 ひとは皆、事実という光景を、水晶体というレンズを通して見ているんだけれど、じつはそのレンズは人それぞれに形が違っていて、癖や強弱や歪みがある。
 しかし往々にしてひとは、自分が水晶体を持つことを意識せずに生きている(それはそうだね)。
 多くのひとは、自分が光景をそのまま見ていると、事実をそのまま認識していると、勘違いしている。
 たとえば、私が見るその光景は、「ひとが安全や道徳のために社会のルールを守る権利を無視する行為」でも、君が見るその景色は、「わざわざ生真面目に時間を無駄にしない、ごく普通の行為」かもしれないということだ。
 この場合、そもそも君はたぶんその行為に特に意味を意識していないから、認識の有無というところから断絶は生まれている。私はその行為に重みを感じているけれど君はそうでないし、その行為が意味するものも君と私でてんで違う。だから、断絶としてはかなり三方向にパーフェクトだ。



 そんなこと考え始めたらきりがない、と思ったでしょうか。
 そう、きりがない。
 きりがない。ひととひととの断絶にはきりがない。私とあなたの境界を完全に無くして一つにならない限り、断絶はある。断絶が個々を個々たらしめている、と考えることもできるかもしれない。

 私が私であると認識するためには、私以外との境界線を見つけなければならない。そしてそこには、どうしたって断絶がある、と思う。
 けれどそれが怖い。

 もしもあなたが、何も断りなく運ばれてきた唐揚げ全部にレモンをかける人間だったらどうしよう。それは、一緒に唐揚げを食べてみなければ知り得ない。
 出会った時に確認できればいいけれど、大抵の人間関係は、一緒に唐揚げを食べることから始まらない。
 だから怖い。

 全てのひととの間に無数にある全ての断絶に向き合うことは、おそらく出来ない。けれど私は、なんだかうまいこと見たかったことにしたり、きちんと対話して折り合いをつけることも、得意でない。

 だから、無数にある断絶を、全部ひとまとめにしよう。
 全部まとめたらそれは、私と私以外、私と世界との断絶になる。とてもとても大きくて重たい断絶。生まれ持って、そして生きてなお悪化する罰。
 それを、舞台と客席の間に持ってこよう。
 それで、舞台と客席は違う世界になる。
 私はあなたを見ていないし、あなたは私を見ていない。私はあなたを通して違う誰かを見ているし、あなたも私を通して違う誰かを見ている。

 舞台は、断絶まみれ、絶望まみれの危険な世界の中で、唯一私に許された安全基地、だった。

 秩序があって、整頓された空間だと思う。結末が約束されたやりとりは心地いい。
 私がこう言えば、相手はこう答える。決まっている。
 この歌詞の後にはこの歌詞が続く。決まっている。

 別に、台詞を読むのがうまいわけでもない。身体を操るのがうまいわけでもない。音程を追うのがうまいわけでもない。滑舌は悪いし身体は硬いし音感はないし覚えも悪い。
 即ち、舞台の上でなら自由に息をして生きられる、というわけではない。

 けれど、舞台の上はいつだって、舞台以外よりはずっとマシだった。

 そう考えると、私はきっと、うまく人と関われる性質を持って、そんな人生を歩んできたならば、舞台になんて立っていないのだと思う。

 なんか、失礼だよね。
 「結婚しなくても幸せになれるのこの時代に、私はあなたと結婚したいのです」っていうコピーがあったじゃないですか。ゼクシィかな。
 本当にそう、と思います。結婚しなくても大丈夫なのに結婚したかったら、それって打算でも利用でも手段でもなく、本当にその人と結婚したいんだなってことじゃないですか。
 私はそれとは違うんだろうな、と思う。

 私は、この世界と切り離されたくてステージに立っていた。
 「舞台の上でないとひとと繋がれなくて不安で仕方ない欠陥の多い人間だから、私は舞台に立つのです」だった。そんなゼクシィ誰も買わない。

 ただ、アイドルとしてステージに立つと、それは完全に舞台が閉じた世界にならないことが多くて、私はずっとそれが不安だった。
 お芝居だったら、お客さんの方に目をやる動作があってもそれはその人を見ていてその人と目が合っていてその人と繋がっているわけではない。舞台という世界は客席に開いていない。
 お客さんが勝手に共感したり自分を重ね合わせたりすることはあるんだけれど、それはあくまで一方的な話。それは悲しいこととかではなくて、そういう種類の表現、ということ。

 アイドルはとても複雑だと思う。
 閉じた曲と開いた曲がある、と感じる。感覚の話。
 ステージの上からでもお客さんと目を合わせるのは怖かったから、そこにいる人間たちを意識しなくていい、閉じた曲が好きだった。

 「自分」として舞台に立つのは、身ぐるみ剥がされてガンガンの照明に刺されながら大勢に見透かされるようで怖い。証拠を押さえようと構えるカメラもある。

 「自分」としてそこに立つとなると、表現の発信者も自分、責任も自分に帰属するような気がする。
 だから、思ってもいないことを歌わなければならないのが苦しかった。
 それが演技ならば、そこが閉じた世界なら、なんの抵抗もなく気持ちを込めて発せる言葉も、もしそうでないのなら、と思うと途端に難しいことになってしまう。

 たとえば「バッドエンド」とか。
 私には結構開いた曲に思える。
 開いた曲だから、舞台に立っている私は私で、見つめるあなたはあなた。
 でも私は「不確かな夢だとわかってもだけど前に進まなきゃ」とか「バッドエンドはないから」とか、思えない。思えなくはなくても、断言なんて出来ない。あなたにそう言い切れない。
 あなたの目を通して虚空を見てならそれらしく言える言葉も、あなたと目を合わせてしまったら、喉につかえてしまう。
 みんなは、自分が書いたのではない言葉、共感しきれない、言い切れない言葉を、どう飲み込んで堂々と歌っているの。

 歌詞は閉じているように感じるが、振りは開いているように感じる曲も、うまく飲み込めなくて苦手だった。
 「fall in you」とか。
 私は「わたし」と「あなた」で完結する閉じた世界の話に感じるんだけど、それが音楽になると、こう、盛り上がったりお客さんを巻き込んだり、開いた感じになる。手を叩く振りもあったりね。

 こういうのを、どう捉えて、どう飲み込んだらいいのか、分からずにいた。

 始めは、曲は曲、と思って、どんな曲でも誰の目も見ないで歌っていた気がする。
 先生に「なもちゃんは何も見ていない」とか「顔が怖い」と言われた。
 たしかに、ステージ上ではメンバーとすら目を合わせられなかった。
 舞台の上なのに自分でいなけれならないMCが嫌で嫌で仕方なかった。
 全部閉じて、そうでもないと歌えなかったんだな。アイドルを始めるなよ。

 回数を重ねるごとに、だんだん、舞台の上での私と、舞台の下の私は混ざりあってしまった。
 お客さんの視線、声援を私はちゃんと受け取った。世界に放り投げるのではなく、目の前にいるあなたたちに、あなたに、これを、届けたい、繋がりたい、と思ってしまっていた。
 私は目を合わせるようになった。

 このとてつもなく広い世界の中で、ほんの狭い舞台の上だけだった私の安全基地は、気付けば、メンバーといる楽屋、そしてお客さんがいるフロアに、少しずつ少しずつ広がっていった。
 断絶は半透明になって、ライブ中はなんだか超えられているような気にもなって。

 とはいえ、先に述べたような感覚とか、相反する二つはずっと私の中にあって、解けることはなかった。

 閉じきっていると感じる曲がやっぱり一番心地よくて、やっぱりそういうのが向いているんだろうな、と思ったりもした。
 急遽一人でライブに出ることになって、朗読劇を作ったときも思った。
 アイドルなんてやっぱり向いていないんだよな。閉じた世界で一人で表現をやっていたらいい。
 良いとか悪いとかじゃなくて(私ってやっぱお話書いて読むのうま〜!当日朝これ書けるのすごいかも〜とか思ったし へへ)、私はどうしてもアイドルに向いているわけではなくて、ただ、もうアイドルに愛着があって、喜びを知ってしまって、どうしたって下手の横好きはやめられそうになかった。

 「夕凪、無彩色、遠い日の夢。」は、私の中では歌詞も曲調も振りも閉じた曲で、無理して頑張って超えていく必要がなくて、それをしなくてもちゃんとお客さんは受け取ってくれて成立して、という気がしていたから安心できた。


 向いていないけれど頑張って断絶を超えていく曲と、断絶のこちら側、本来の安全基地の中でブレずに表現する曲。
 最終的には、どちらも楽しかったし、愛していたな。

 ただ、終わりが近づくにつれて、舞台の上でも「私」がどんどん顔を出そうとして、「私」が占める割合が増えていくような気がして、それが嫌だった。
 曲という世界に私情が入り込むのは、曲に失礼な気がして、思い出のために言葉の一つ一つを消費している気がして。

 3/21、最後の日。
 四曲目、「夕凪、無彩色、遠い日の夢。」。
 私は私を消さなきゃと思った。
 これが最後だなんて思いながら歌っちゃいけない。初披露だったワンマンのときのことなんて思い出しちゃいけない。この曲を、感傷で侵食しちゃいけない。

 後半、「違う場所でまた会えるなら」というパートがある。
 歌いながら顔を上げた時、私は断絶でも虚空でもなく、フロアを見てしまった。お客さんの目を見てしまった。

 「違う場所でまた会えるなら」と、思ったんだ。


 私はようやく、私に出会った。

 舞台の上で私でいるか私でいないかの半分半分でなくて、両方が重なって、両方が100%だった。
 私でないから言える言葉、私であるから言える言葉、両方が、私が舞台に立つ理由の全部だった。

 私が重なった瞬間を、忘れたくないな、でも忘れてしまうんだろうな。 

 舞台と舞台以外での断絶とか安全基地みたいな感覚は、私がつくった想像上の理想の世界だと思っていた。
 舞台に立つことは、難解で危険で不安定で怖い現実世界から逃げて、それとは対照的な仮想世界を設定して生きることだった。
 舞台から降りた今になって思うけれど、おそらくそれは違って、それらの感覚こそ、この現実世界での私の在り方だったんだと思う。
 世界との向き合い方や態度を分かりやすく縮小したのが、舞台に立つという営みだったのだろう。

 私は舞台の下でだってひとと目を合わせずに生きていたし、舞台の上でだってひとと目を合わせずに生きていた。

 小学生の頃から、クラスメイトの字を真似するのが得意だった。人気者の可愛い女の子のちょっとクセのある字をこっそり真似していた。
 大学生になってからは、出席確認のリアペの代筆を頼まれてその子の字を真似して書いたりもしていた。
 あと意外とモノマネが得意。喋り方とか歌い方とかね。披露はしないですが!
 私はずっと、誰かの何かの真似を継ぎ接ぎして生きてきたらしい。
 どうかな、そうは思われないかな。
 私は結構、普通になりたくて、普通になって舞台なんかに立たなくて済みたかったんだ。

 舞台に立てば、それは当たり前になる。
 真似の偽物だらけの私が正当な生き方になれる。
 その安心感が欲しかったのかもしれない。

 私がポエトリープでの514日、いや、514日が始まる前の準備期間も含めて、それらの日々で得たものは、世界との向き合い方、付き合い方だったのかもしれない。

 心理状態を箱庭に再現するように、自分の世界に対する振る舞いを舞台に再現して、ゆっくりそれを解いて咀嚼して、ごくんと飲み込めた瞬間が、解散ライブでの夕凪のあのフレーズだったのかもしれない。
 ごめんね、私はアイドルになるのが本当に本当に遅かった。

 今はもう、ライブ中の感覚を忘れてしまった。
 久しぶりに開いたTwitterで違うグループのライブ映像が流れてきてなんとなく見たけれど、彼女たちはなんだかもう私とは違う種類の生き物で、私自身があそこでどんな感覚を持っていたのか、脳内に甦らすことができない。
 私も立ったステージなのに。一緒にステージに立った彼女たちなのに。

 四十九日しか経っていないのに、四十九日も経ってしまえば、忘れてしまうよ。
 こんなことがあった、こんなことを思っていた、そんなことは記憶していても、感覚なんてすぐに手をすり抜けてしまう。


 さあ、ポエトリープが解散して、四十九日が経って、私はまだまだ成仏なんて出来ないよ。
 あの世こそきっと、断絶された世界だね。
 折角断絶を超える術を身につけたのに、あの世に行っちゃったら流石に太刀打ちできないよ。

 まあ、私一応キリスト教だし、いっか。
 あの世なんて行かないで、断絶のない、同じ此岸で、自分を弔いながら呪いながら、君のことを見ています。

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