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生を構成するもの、生存⊃生活なのか、生存∪生活なのか、或いは

 生存は得意だが、生活は苦手だ、と思うことがある。

 私はけっこう体が頑丈だ。こう見えて、なのか、お察しの通り、なのかは分からないけれど。
 骨折も捻挫もしたことがないし、嘔吐した記憶は人生で一度しかない。中高は欠席0で通った。
 身体的な弱みと言えば、発酵していない牛乳でお腹を壊すのと半月板が少しずれているのと脳機能に弱いところがあるのと裸眼視力が0.07くらいなのと顎変形症らしいことと週に2回くらい微熱を出すことくらいだ。(と羅列すると多いようにも見えるが、細々したものまで改めて洗い出して並べてみれば皆も結構あるものだと思う)

 そういうわけで、生存能力はかなり高いように思う。生まれてきてから今まで、生命の危機に瀕した経験がない。生後6ヶ月、母乳だけで10キロを超えていたことしかお医者さんに注意されたことがない(天性のエリートデブだと思う)。
 ちなみにテント泊もかまくら作りも富士山登頂も魚釣りも魚殺しも三枚おろしも簡易トイレも経験済みだから、そういう面でも生き残るのには向いている気がする。

 「生」に関して、原始的で大雑把な力はそれなりに持っている、が、繊細で複雑な器用さとかセンスは壊滅的なように思える。

 握力は30以上あるのに玉留めはできないとか、50m走では10秒切ったことがないのにマラソン大会では学年2位だった(長距離は気合いでカバーできるからね)とか、料理はからきしだけどヨーグルト一個と水分程度でしっかり動ける(2週間はいけた)とか、傘は基本的に忘れるがずぶ濡れになっても風邪は引かないとか、悩んでいてもご飯を貰ったら全然食べられちゃうとか、そういうの、顕著だなと思う。
 私は生において、しっかりと確実に粉チーズを大放出することはできても、適切な分だけこぼさないように振りかけることはできない中山きんに君なのだ。



 ただ「生」きたまま「存」在していることは得意だが、「生」きていることを「活」かすことは苦手だ。
 生きていることを活かすこと、それはつまり、豊かに生きるとか。人と繋がったり楽しいことをしたり楽をしたり欲しいものを手に入れたり協力したり褒められたり人の役に立ったり。
 私はそういうのが苦手だ。壊滅的に、ままならない。

 夜寝る、朝起きる、電車に乗る、学校にたどり着く、授業を受ける、友達と話す、ひととご飯を食べる、部屋を片付ける、爪を切る、お風呂に入る、目を合わせる、時間を守る、みんなが何食わぬ顔でやってのけているそれらが、どうしようもなく、大きくて重たくて難しい。

 とはいえ、私は生きている。圧倒的な生存のパワーがあるから。私の生活能力のなさは多分ちょっと異常な域に足を突っ込んでいて、けれどこれは、日本の手厚い福祉制度さえかいくぐってきてしまった。生活能力の無さをものともせず覆い被さる生存能力があるから。余裕で生存できてしまうのだ。


 しかし、
 生きていけてしまいたくないのだ。
 生きていけてしまうだけでは、生きていられないのだ。私は。

 22歳。数年前から薄々気付いていた。
 生存は生活を完全には補完できないし、生存できるだけでは生きてはいけない。
 お友達を作れなくても生存はできる。学校に行けなくても生存はできる。退学になってしまっても生存はできる。就労できなくても生存はできる(暫くは)。けれど、それで、生きていけるのだろうか。生きることを許されるだろうか。生きていると思えるのだろうか。生きていくモチベーションを保てるだろうか。

 子育てにかかる費用はどんどん膨れ上がっているらしい。大学進学率は50%を超えたし、小さいうちから当たり前に習い事に通う。小学生もスマホを持っているらしい。当たり前で人並みの水準に留まるために必要なお金や行動や肩書きは増えている。子どもは超贅沢品だ。
(これらを持っていない人は「普通」とか「人並み」以下だ、という意味ではなくて、ね)

 高校が楽しくないと冗談めかして言ってみた私に、母は「高い金払ってるんだからそういうこと言わないで」と言った。
 大学に行かず単位を落としまくった私に母は「いつからこんな子になっちゃったの」と言った。
 寒中見舞いか何かの返事を先延ばしにしていた時には「恥晒し」と言った。リストカットしている人は「キチガイ」で、学校には「這ってでも行くべき」らしい。

 「生きてさえいればいい」とか「逃げてもいい」とか「無理しなくてもいい」なんて言葉をたまに聞く。本当にそうなのだろうか。本当に皆そう思っていて、本当にそれで生きていけるのだろうか。

 少なくとも私は、生存するだけでは生きることは出来なさそうだし、許されなさそうだ。そして許されなさを跳ね退けて立ってまで生きるモチベは持てなさそうだ。
 苦手なこと、例えば人と関わることとか外とか音とかそういうのから全部逃げて学校もバイトも投げ出して引きこもったとして、「ちゃんとしていない」私を親は認めないし、学歴も職歴もない私を世の中は受容しないだろう。

 (少なくとも日本では)「生存」を阻むリスクは低くなっているのに、「生活」にかかるコスト(お金だけじゃなくてね)は高くなっていて、それをクリアしなければ、実際問題生きていくのは難しい。甘いのかな、でも、難しい。当然、生きていけないということはつまり「生存」も叶わないということを意味する。

 多くの生物はただ「生存」し、特殊な一部が「生活」もするはずなのに。人間だってまず「生存」し、そして「生活」を始めるはずなのに。
 始めは「生」は「生存」であって、「生活」は「生存」のためにあって、「生活」は「生存」の中にあったはずだ。 

 しかし人間の「生活」は膨れ上がって、生存を侵食して膨れ上がって、「生」きることと限りなく線を重ねようとしているのではないか。


 生きるのがしんどいと思った時、学校の最寄駅を無視して、行き先のアナウンスでしか聞いたことがなかった終点に向かうことができる。けれど、本当に行き着く場所はどこだろう。本当に、その行動は私を生きやすくしてくれるのだろうか。「生活」し損ねた私を、それでも「生存」してしまった私を、世界は「生」かしておいてくれるのだろうか。

 そもそも、生きるのを辞めたい時って、それは「生存」が困難になった時よりも大抵「生活」が困難になったときなのではないか。

 「生きてさえいれば」の「生」は、いつの間にかじつは「生存」ではなくて「生活」のことで、その「生活」にはとてもとても沢山の条件があるようで、怖くなる時がある。

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