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執着

 「生きることに執着がないんだよね」と、ある子は言った。

 生に対する執着がなくて、だから生きたいとも死にたいとも思わないし本当にどうでもいい、らしい。
 なるほど、と少し考えて、「生きたいと思うことと、生きている以上よりよく生きたいと思うことはまた別のことだよね」と言った。
 たしかに、どうせ生きているなら可愛くありたいし正しくありたいし賢くありたいし優しくありたいし猫と暮らしたいしアイドルとかやってみたい、からといって、私が生きたいと思っているなんて解釈されてしまったら堪ったものではない。だから、よりよく生きようとしている彼女が生きることに執着がないと言うのも、なにも矛盾していないし不思議でもない。

 私はどうだろうか。生きることや死ぬことについてはしょっちゅう考えている気がするけれど、自分自身の生へのスタンスを、執着という概念や或いは言葉を使って形容したことはなかった。
 生きることへの執着がない、ということもない気がする。勿論、生きていたい!と思うことなんてないけれど、多分、生きていても死んでいてもどっちでもいい、というスタンスでもない。生と死は大体一緒、というか、一つの事象を構成する二つ、一つの事象を別の視点から表現した二つであるから、死への思い入れが強い私が、生にだけ執着がないなんてことはないと思う。
 おそらく私は、生きているのなら生きたいと思って生きていたいのだと思う。

 生きることは、奪うこと、壊すこと、汚すことだ。少なくとも人間は、少なくとも私はそうだ。
 物事には意味と機能があって、いつだってその二つの別々の側面から描写することができるのだけど、今は、前者だと思って欲しい。
 生きることは、奪うこと、壊すこと、汚すことだ。木を切る、車に乗る、花を贈る、ごはんを食べる、食べきれなくて捨てる、受験に合格する、最後の一個のアイスを買う、息を吸って吐く、
 私は他の何かを殺すことで生きている。損なうことを避けては生きられない。いつだってそれに自覚的でありたいのだ。
 生きているのなら、「生きていてごめんなさい」「生きさせてくださいごめんなさい」と思いながら生きていたい。人畜無害な顔をして罪悪感なく生きていることを自分に許せない。常に私は罪人である。そこから逃げられないのであればせめて、と思う。罪悪感という感情は何も生み出さないし免罪符にもならないことは分かっている。ただ、罪悪感を忘れてのうのうと生きれば、ふとした瞬間に必ず訪れる、それを思い出す瞬間に潰されてしまうのだ。罪人であることと、それすら忘れていたこと、両方への罪の意識はきっと私を今以上に、致命的におかしくしてしまう。常に生への罪悪感が必要なのは、結局はよりよい生のためなのである。
 生きていることに罪悪感を抱くためには、そもそも生きているという実感が必要である。あまり物騒に思わないでほしいのだけれど、私は痛いことや苦しいことが結構好きだ。それはきっと、生きている実感が得られるし、その罪に対する罰になりえる、と思うからなんだと思う。と、やっと思い至った。生きていると感じられるし、生の苦しみを原始的な感覚で叩き込める。たぶん他にも理由はあると思うけれど、これは大きな理由な気がする。
 生きている、生きてしまっていると感じる、申し訳なく思う、何かにゆるしを乞う、せめてもの罪滅ぼしをする、そうやって生きている。
 生の罪悪感と生きるのは、わりと難しい。豚をペットとして飼いながら養豚場を経営するように難しい。多分。

 年々重くのしかかる罪を背負って歩く道は、どこに繋がっているのだろう。
 この大きな十字架を手放して顔を上げれば見えるはずの景色は、綺麗なのだろうか。それとも、やはり凄惨で救いようがないのだろうか。

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