埋められない喪失、埋まってしまう喪失 ー100日後に死ぬワニと100日間生きたワニー


 ワニくん、今年もこの日が来たよ。

 今日は、100日後に死ぬワニくんの命日です。

 映画「100日間生きたワニ」を観てきた時に書いたものをやっと完成させました。
(❗️ネタバレを含みます)



 映画「100日間生きたワニ」を観てきた。
 公開から数日、ネットでの評判はなかなかに酷いものだった。この段階からここまでdisられる映画なんてなかなかないだろう。

 100日後に死ぬワニ。2019年の12月12日から2020年の3月20日までを人生最後の100日としたワニだ。  
 まず前提として、私はこのワニくんが大好きだ。1日目から毎日ワニくんを見ていたし、100日も前から予告されていたワニくんの死に、当たり前に号泣した。ポップアップショップもしっかりチェック、ラインのスタンプは複数種類持っているし、スマホのロック画面はワニくん渾身のネタ「5時のまね」だ。去年の3月20日には黄緑のお花を買ってお花見に行って、個人的な一回忌を執り行った。今日はライブがあったし桜はまだ咲いていないのであまりきちんとはできなかったけれど、またワニくんに似合うお花を買って帰ろうと思う。

 100日目、死んだ直後からワニくんは炎上した。火葬だね。
 いろいろ言われているけれども、私は、100日間ワニくんが私とこの世界を共にしてくれただけで十分だった。 
 ワニくんが好きと言うと大抵なんかウケるし、驚かれる。あまりいないらしい。
 映画「100日間生きたワニ」も、嫌いな人が悪評を書いているか、中立な人がまあよかったよ、と書いているかと言った感じだが、ワニくんの盲目オタクの私が見た「100日間生きたワニ」を、記録しておこうと思う。

 「100日間生きたワニ」は、「埋められない喪失と、埋まってしまう喪失」の物語だと思う。

 映画は、100日目のシーンから始まる。仲良しグループでお花見を始めるが、なかなかワニくんが来ない。ネズミくんがバイクで迎えに行き、道中で桜の写真をワニくんに送る。原作通りの展開だ。

 そこから場面は100日前に戻る。原作を辿ってワニくんの日常が始まる。バイト先のセンパイが気になったり、でもあんまりうまくいかなかったり、ネズミくんとラーメンを食べたり、朝日を見たり、ゲームをしたり。普通。
 私も、原作と同じように、「でも100日もせずこの子は死んでしまうんだ」とか「死はいつでも日常の延長線上にあるのだなあ」とか当たり前のことを改めて感じながら見る。
 原作よりも、そんな「生活から死への連続性」は感じやすかったように思える。コマで区切られることすらない、言葉通り流れるような日常が、ある時エンドロールに切り替わって終了する、それが人生なのだろう。


 先述の通り、映画は原作をなぞってワニくんの人生最後の100日間を映す。そして、冒頭の100日目に繋がるのだ。

 そして、100日後のその先が描かれる。場面は100日後へ、つまり、「100日目の100日後」へ移行する。
 ワニくんを失ったことは仲間たち(ネズミくん、モグラくん、センパイ、イヌ)の生活に影を落とし、彼らを疎遠にさせた。
 付き合っているモグラくんとイヌは勿論一緒に生活していて仲も良好なんだけど、それでもやはりワニくんの話は暗黙のうちに禁句だし、ほかの仲間と連絡を取ることもない。
 この4人は、ワニくんが居て5人で初めて「仲良しグループ」だったのだ。勿論ワニくん以外の4人だってそれぞれ仲は良かったし、描かれこそしなかったけれど、用事があってワニくんは不参加で4人で遊んだ日だってあったかもしれない。
 しかし、永久に失われてしまったその存在は、4人が集まってしまったときには、どうしても直視しなければならない暗い闇になる。
 不思議な話だけれど、不参加の日には同時にどこかで存在していても思いだされもしないのに、死んだあとはもう世界のどこにも存在しないのに必ず意識され思い出されるのだ。
 4人にとっては、その4人が集まることは、ワニくんの存在、そしてつまり不在を意識することを意味するのだろう。
 また、ワニくんの死は、それぞれの生活も変えてしまう。ネズミくんはバイクに乗らなくなるし、センパイはワニくんと観た映画の続編を観られない。 
 死んでこの世界に存在しなくなっても、共有した時間やその記憶は、痕跡として様々な場所や物や匂いや言葉に残るのだ。それは染み付いて洗い流すことができない。だから、共にした時間が長いほど、一緒にしたことが多いほど、悲しみの引き金は多くなる。地雷は世界中に埋まっていて、不意に思い出せば悲しみに襲われてしまう。
 それは、逆に言えば、悲しみの引き金や或いは地雷が多いほど、悲しみが大きいほど、その喪失も、その存在も、自分にとって大きかったということになる。それはある意味、幸せなことだ。だけどそれは悲しみに暮れている時には中々分からないことだろう。気付くのは、喪失が埋まった時だ。一生埋まることなんてないと思っていた大きな穴が埋まってしまっても私たちは大抵それに無意識的だ。だがふと何かの拍子に気付いてしまったら、その時、私たちはなぜか悲しくなる。悲しみが薄れたことが悲しくなる。

 ワニくんが住んでいた町に、新たな人物が引っ越してくる。カエルくんだ。彼は原作には登場しない。
 カエルくんは社交的でいわゆる陽キャ。けっこうグイグイ行くタイプだ。
 彼はネズミくんたちと仲良くなりたくて、バイト先に押しかけたり遊びに誘ったり、積極的に関わろうとする。しかし4人は喪失から立ち直っておらず、新しい人物を迎え入れて楽しく過ごす気にはなれない。
 ある日、カエルくんが、ネズミくんの働くバイクの整備工場に、修理で預けていたバイクを受け取りに来る。「ピカピカにしてくれてありがとう」と言うカエルくんの様子がどこかおかしい。
 ネズミくんが「このバイク、どこも壊れてないよね」と問うと、カエルくんは、去年友達をバイクの事故で失くしたことを告白する。カエルくんは、その悲しみを忘れたくて新たな町にやってきたのだ。「でもダメだ。忘れられねえ。」とカエルくんは言う。

 彼の明るさは、どこまでが彼の元々持つものだったのだろうか。ウザいくらいにしつこい明るさの押し売りは、悲しみを抑制した反動なのではないか。だとしたらその悲しみの大きさは計り知れない。
 私は明るすぎる人が怖い。たとえば、ちょっと空気は読めないけどとにかく明るくて愛されてるようなキャラで大人気の、カラフルな衣装がトレードマークのユーチューバーとか、何事もやればできると自分にも周囲にも言い放つ、肯定的なことしか言わないお笑い芸人とか、ああいう人たちになんとも言えぬ恐怖を感じる。自宅に帰った瞬間、スイッチが切れたように虚無を過ごしているのではないかとか、ある日世界に絶望しきって居なくなってしまうのではないかとか、勝手な想像をしてしまう(失礼なことだ)。自分が根暗(と言われる)がゆえに、根っからの明るさというものの存在を想定できずにいるのかもしれない。
 カエルくんも、登場時から私にとっては怖くて、もっと言ってしまえば不気味なのだった。ただ、カエルくんの告白を聞いてからは見る目が変わった。私は、カエルくんが、分かる。いや、むしろ、私もカエルくんなのだ。
 人に見破られて指摘されたらそこから溶けだしてしまうような、人に見せたくない弱みを隠すために、明るさで武装する。鈍感な道化になることで、そもそも傷なんてないように見せる。

           ・


 水は唯一、全てのものを溶かす物質だと、小学生のころ本で読んだことがある。全く無害で何も起こさないように見せかけて、気が遠くなるような時間をかけて、だが、あらゆるものを溶かすらしい。これは衝撃の事実だ。
 涙も、きっと同じなんだろう。何も意味がないように見えて、時間をかけて、感情や記憶を溶かしていく。いいものもわるいものも。
 悲しさや痛みや後悔も溶かしていくし、楽しかった思い出や温もりも溶かしていく。あの時の笑顔の目尻の皺もあの時の別れ際の背中もなにもかも、記憶は少しずつ薄れていって、たとえば数百年も生きればそのうちに、遺影の顔しか思い出せなくなる。極端な話だけれど。私はまだ21年しか生きていないから分かるわけではないけれど、きっとそうなんだ。

 大切な存在の喪失は悲しい。その大きな穴は何にも埋められなくて悲しい。しかし、何にも埋められっこないと思っていた穴が、埋まってしまうこともまた、悲しい。
 しかし喪失は埋められないし、埋まってしまうのだ。
 私たちは、大切な人を失った時に、この二つと向き合わなくてはならない。いや、戦わなくてもいい。消化も昇華も、できなくていいししなくていい。ただこれが事実ってことを認められればいい。それが難しいのだけれど。

 ネズミくんは、カエルくんを受け入れた。仲間として迎え入れた。それは、彼が「同じ痛み」を知っていることを知り、それに触れ、どれだけ意識したかはわからないが、「傷を癒したい」・「自分なら癒せるかもしれない」と願ったのかもしれない。

 雨は止んでいた。
 ネズミくんはカエルくんをバイクに乗せ、夜の町を走った。山に登って、頂上で朝日を見た。みかんを食べた。「6時のマネ」を披露した。
 ワニくんとしたのと同じように。

 これは象徴的で、また儀式的な出来事だろう。ワニくんが居なくなってから、ネズミくん達は、ワニくんとの記憶を思い出さないように、或いは塗り替えないように、怯えながら大切に大切にとっておいていた。そんな記憶を、恐る恐る丁寧になぞった。丁寧になぞって輪郭の一線を描き終えたとき、ネズミくんは泣いた。

 この涙こそ、「喪失が埋まらないことと、喪失が埋まってしまうこと」を悟った悲しみによるものなのではないか。
 この瞬間から、ネズミくんは「喪失を埋める」作業を始めたと言える。埋めたいと願ったわけではないだろう。ただ、前に進むことを選択した以上、これは避けられない。


 ネズミくんたちはとうとう再び集まることになる。あの頃のように。しかし、ワニくんは居らず、カエルくんが居る。
 モグラくんとイヌは結婚することを皆に伝えた。一同はお祝いに外食に行くことにする。

 センパイが言った。
 「なんか、久しぶりに笑ったわあ」

 彼らは、長い時間をかけて、この時はじめて笑えたのだ。ワニくんが居たはずの、ワニくんが居ない世界で、悲しかったはずが笑えるようになったし、悲しかったはずなのに笑えることを許せるようになった。



 彼らは、喪を明かすことを選択した。きっとまだ彼らは、喪失が埋まりゆくことを知らない。
 新たな友とともに、日々を更新していって、ワニくんが居なくても集まって笑って、ワニくんと行くはずだった映画を観に行って、ワニくんとしたゲームをして、ワニくんが居ないカエルくんが居る5人を「俺たち」とか「私たち」と呼ぶようになるのだろう。
 そしてふと、そこにワニくんが居たことを思い出し、ワニくんが居ないことを思い出し、記憶の引き出しにすっかり仕舞い込んでいたことを自覚し、喪失がいつしか埋まっていたことを知るのだろう。

 きっとその時、彼らは泣いてしまう。大切な大切なワニくんを、記憶の墓に自ら埋めていたのだと愕然としたり、そんな自分を責めるかもしれない。
 ただ、頻度は落ちようが、衝撃は薄れようが、ワニくんを思い出す瞬間が完全に無くならない限り、喪失は埋まっても、埋まり切ることはないのだ。


           ・

 100日間生きたワニは、私から見て、こんなお話だった。
 ワニくんは私にとって、埋められない喪失と埋まってしまう喪失の象徴だ。きっとあなたの人生にもワニくんは登場する。

 喪失をまだ埋めたくない私は、ときどきワニくんを撫でるんだ。 



(後半結構うろ覚えの箇所があります……訂正お待ちしております。)

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