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彼の人

 彼の人と目があった。

 彼の人は、美しい空の姿をしていた。
 目は澄んでいて、深かった。

 何も捉えない目、何も考えない脳。
 私はただ目の前にある光景を網膜に映し、私の脳はそれをそうと認識しているだけだった。
 慣れている作業をするとき、人はほとんど脳の処理容量を使っていないらしい。いつも通り階段を上る私はまさしくそれで、足元から2.3m先に目をやりながら、しかし何も見てはいなかった。
 階段を登り切り、ふと視線を上げた。
 青が、切迫して美しかった。
 目眩がして、堪らず目を閉じた。蛾の羽みたいな幾何学模様が渦巻いた。幼い頃はこの模様をよく見ていたのを思い出す。気づけば頻度は落ちていて、これは数年ぶりかもしれなかった。
 もう一度目を開けてみると、やはり彼の人は気のせいではなく私を、私だけをジッと見つめていて、そして私の視線を捕らえてしまった。目を逸らすことができなくなって、歩くことも忘れて立ち尽くすしかなかった。
 蝉の音は消えていた。
 歩道橋を行き交う人々は皆足元か手元を見ていて、この空にも、見つめる視線にも気づかない。
 彼の人が、空が、美しすぎて、私は吸い込まれてしまいそうだった。

 けたたましい音が私を彼の人の視線から引き剥がした。歩道橋の下を救急車が通過した。
 彼の人の姿は消え、平凡な空が広がるだけだった。
 蛾の模様を瞼の裏に見るたのは、これが最後だった。

 彼の人の名前は、タナトスと言うらしいのを、私は後から知った。


 タナトスと目があった。

 彼の人は、私ととてもよく似ている姿をしていた。
 少なくとも若干度の合わないコンタクトレンズ越しには、私そのものに見えた。

 電車に乗っていた。帰り道だった。乗客はまばらで、誰しもが誰しもに関心がなさそうだった。 
 スマホの充電が残り20%であることを知らせる通知が、止め処なく緩やかに流れるTLを堰き止める。ある種ふいに現実に帰って、その瞬間、時刻表示が00:00に変わった。私の門限だ。通知を消してスマホの光を閉じて、なんとなく視線を上げる。
 黒い車窓に、私を見つめる私、否、彼の人が居た。
 目があって、しゅんかん、私はまた捕まってしまった。
 私は彼の人を、こんなつまらない片田舎の電車の車窓から解放してあげなければならなかった。彼の人は僅かに頷いて、私を連れ出そうとした。

 スマホが膝の上で震える。
 視線が解けて、スマホに目をやる。母からのLINEだった。ああ、これをどう言い訳したものか。
 聞き慣れたアナウンスが聞こえる。車窓に在るのは彼の人ではなく、鉄道会社独特のフォントの見慣れた駅名だった。

 00:03、私は最寄りの駅で下車した。

 タナトスと目があった。

 彼の人は、美しい空の姿をしていた。
 目は美しく見開かれていた。

 消えそうな光が夜空に残りわずかの彩度を与えて、地平線は、間違って緩んでしまった、どこか違う世界への入り口のようだった。

 弱々しい光は、それもわざとらしくて、機を見て私を境界線に引き摺り込もうとしているようだった。私には分かった。

 私は、引っかかってやることにした。
 タナトスの美しい目玉を目掛けて、私は地平線へ踏み出した。
 切ない色の光を目一杯に映す、美しいうつくしい目玉を、私は食べてやろうと思った。
 擦れる橙、黄色、水色、青、紫の色彩、私は目を奪われ、しかし、瞬きの隙に、気づけば灰、灰、灰、灰。
 慌てて目印の目玉を探す。美しい反射は見失ってしまうほど細く、細くなって、そのまま閉じて消えてしまうようだった。
 私は急に心細くなる。目指すべき光が、うっとりするほどの煌めいていた眼光が、今や心許ない。不安だ。体のどこにも重みがなくて、全てが空を切る。もう戻れない。目前に、一番淀んだ灰。
 どこへの入口でもない、閉じた地平線と出会う一瞬前、一層細くなった光が、ぬらりと、光ったのが見えた。

 タナトスはわらっていたのだった。


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