マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』を読み解く

マルクス・ガブリエルさんの『なぜ世界は存在しないのか』を読み解きます。本書の続編『「私」は脳ではない』にも言及します。

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本書は2013年にドイツで発表され、ポストモダンを越える新時代の思想潮流として、一躍話題になったものである。そのねらいは、科学的合理主義やポストモダン思想に抗って、ヨーロッパの伝統的な価値観を擁護することにある。自由や人権などの普遍的価値が、唯物論者によって否定されようとしている。こうした反論に再反論し、ヨーロッパの人文学を守り抜くことが筆者の目的だ。

本書で展開されるのは「新実在論」という新しい哲学体系である。その評価についてはすぐに述べるが、筆者がこれを考案したのは、唯物論者などに反論するためである。したがって、この新しい哲学体系の価値は、その反論が的を射ているかどうかで判断されねばならない。

 

では、筆者の議論を確認しよう。彼はまずポストモダン思想を攻撃する。ポストモダンとは、「およそ事実それ自体など存在しない」という考えである。「事実は存在せず、解釈だけが存在する」。

これに対して、新実在論は「あらゆるものが存在する」と主張する。あらゆるものとは、物質的な存在だけでなく、感情や空想などの精神状態を含めた、およそ思考の対象になりうるものすべてが現実に存在する、ということである。このとき、それぞれのものは単独で存在するわけではなく、必ず何らかの「意味の場」のなかに現れる。たとえば、我々が草原に立つサイを見るとき、そこにサイがいる、という我々の認識がまず存在する。それと同時にサイそのものも存在するが、それは草原という「意味の場」において存在するのだ、と筆者は主張する。

ポストモダン思想は、「サイがいる」という我々の認識だけが存在すると主張する。それはナンセンスであり、現実に物理的な対象としてサイは存在する。だが、物理的な対象のみが存在すると考えると、それは唯物論になってしまう。ここで、サイそのものも存在し、サイに関する我々の認識も存在すると主張するのが新実在論である。

重要なのは、サイは草原という意味の場のなかに現れる、という点である。なぜサイが単独で存在すると言わないのかというと、サイと我々の間に関係を作るためだ。サイは我々と無関係に存在しているのではなく、意味の場に現れることで、あらかじめ我々と関係を持った状態で、我々の前に現れる。このように仮定しないと、世界と自己の関係を説明できず、無機質な唯物論になってしまう。つまり、「意味の場」という概念は、ハイデガーの「世界内存在」を言い換えたもので、そこから実存的な要素を抜き取ったものだと考えられる。「世界内存在」は対象への指向性を持った実存のあり方を示す言葉だったが、「意味の場」はその指向性を薄め、ハイデガーを軽量化したものといえる。

 

本書表題の「世界は存在しない」という言葉は、世界が現れうる意味の場が存在しないことを示している。「世界」を、全ての意味の場が現れる意味の場と定義するならば、世界が現れる意味の場も世界に含まれることになる。つまり、自分のなかに自分自身が含まれることになるため、矛盾が生じる。したがって、世界は存在しない。だが、世界以外のすべてのものは存在する。これが新実在論の結論である。

しかしよく考えてみると、この議論には深刻な欠点がある。すなわち、意味の場について考える著者の思考も、何らかの意味の場のなかに現れているはずである。さもなくば、著者の思考は存在しないことになる。では、自身の思考が現れる意味の場を、著者は認識することができるのだろうか。

もしもできるとするならば、超思考が存在することになる。超思考とは、世界について考えつつ、自己自身についても考える思考である。著者は超思考を否定しているので、これはありえない。

しかし、もしも著者自身の思考が現れる意味の場について、それを考えることも認識することもできないとすれば、なぜそれが存在すると言えるのだろうか。

それは存在しないと言うならば、すべてのものは意味の場において現れるとする、著者の存在論の原則が否定されることになる。

一方、それが存在するのなら、著者は原理的に思考できず認識できない対象について、その存在を主張していることになる。それが許されるなら、空想と現実の区別は完全に消失することになるだろう。

 

新実在論の問題点は、認識論の観点が欠けていることである。何かが存在すると言うためには、我々はそれを認識しなければならない。認識できないものが存在すると主張するならば、すべての迷信が肯定されることになってしまう。しかしながら、著者は迷信と知識を区別できることを認めているのだから、その手段についても考察しなければならない。迷信と知識の違いは、我々がその対象を明確に認識できるかどうかである。つまり、認識されることが正しい知識として認められる条件であるから、認識されないものの存在を認めてはならない。

一方で、誰も著者の思考が現れる意味の場を認識することができないのだとすれば、その存在を主張することは許されない。よって、すべてのものが意味の場に現れるとする著者の主張は成り立たないことになる。

ここで仮に、著者の思考はそれ自体では存在せず、読者によって読まれたときに存在する、すなわち、著者の思考が現れる意味の場は、読者によって認識されるというならば、それはありえない。なぜならば、我々が本書を読むことができるのは著者の思考の結果であって、原因ではないからである。著者の考察があったからこそ、我々は本書を読めるのであり、したがって、我々に認識される前に著者の思考は存在したことになる。では、それはどんな意味の場において存在したのだろうか。それは存在するともいえないし、存在しないともいえない。ここにおいて新実在論は完全に破綻する。

さて、以上で新実在論は論破されたが、もう少し本書の吟味を続けよう。本書の目的は新実在論そのものというより、唯物論やポストモダンへの反論にあったからである。ポストモダン思想への反論については、ここまでの議論で確認できたと思うので、次は唯物論への批判、本書でいう自然主義への批判を確認しよう。

なお、以上の議論に関しては『中論』第九章観本住品参照のこと。

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自然主義は唯物論の一種であり、自然科学の対象となりうるもののみが存在する、という主張である。著者はこれを、精神を否定するものとみなして排斥する。彼は「非物質的現実が存在する」と述べて精神の存在を主張し、自身の立場を反自然主義と定義する。

著者は物理学の奥深さをまったく理解していない。たしかにありがちな議論ではあるが、この種の考えは二元論の影響を受けすぎている。彼は物質と精神の対立を解決不可能なものと考え、自然主義では精神を説明できないと主張するが、そんなことはない。自然主義の枠内で人間精神を説明することは可能である。

たとえば、あなたの脳内にある、ひとつのニューロンに注目しよう。そのニューロンはいま発火することも可能であるし、1分後に発火することも可能である。実際にそれがいつ発火するかということは、ニューロンの化学的性質からは説明できない。重要な点は、物質と、物質の運動は別のものである、ということだ。あなたのニューロンがいつ発火するかということは、他のニューロンとの相互作用や、外界からの刺激によって決まる。そして、それらの要素を物質に還元することはできない。

もうひとつ例を出そう。地球は北極から見て、太陽の周りを時計回りに回っている。ここで、なぜ時計回りなのかということは、地球の物質的組成からは説明できない。地球がいまと全く同じ物質組成を持ちながら、太陽の周りを反時計回りに回ることは完全に可能である。その仮定はいかなる科学法則とも矛盾しない。しかし、実際は時計回りに回っている。それはなぜかといえば、たまたまである。太古のむかし、星雲の塵の集まりから地球が形成されたとき、何らかの力が働いて、地球を時計回りの方向に押しやった。その力がどんなものであったのか、我々は知らない。むかしのことだからである。長い歴史の中で様々な力が働いた結果、地球はいまの運動状態にあり、それを物質に還元することはできない。

 

運動の自由度は空間の自由度から独立している。ゆえに、精神を物質の運動と定義するならば、精神は物質から独立して存在すると言える。ニューロンが精神なのではなく、ニューロンの活動が精神である。このように考えれば、自然主義の枠組みの中で、精神の存在を主張できる。したがって、著者の自然主義に対する批判は誤りである。

これに対して、この本の著者は次のように反論するかもしれない。ニューロンの活動が精神であり、かつ、それが先行する諸条件によって決定されているのだとすれば、精神に自由はないことになる。それは決定論であり、不合理である、と。

しかし、この批判は当たらない。というのも、決定論という言葉が意味を持つのは、何が決定されているかを予言できる場合だけだからである。たとえば、あなたが次のように言ったとしよう、「私は、明日行われる競馬の結果がすでに決定されていることを知っている。だが、どの馬が勝つかは知らない」。この場合、あなたは何も言っていないに等しい。

同様に、私はニューロンの活動が精神であると主張する。しかし、その活動を決定する諸条件について正確に知ることはできないので、この主張は決定論ではない。したがって、自然主義の枠内で、決定論的ではない精神の存在を主張できたことになる。

 

著者は科学について思い違いをしている。彼はいう、「自然法則が例外なく適用できるのは特定の理想的な条件を実現したときだけ」、「自然法則は、自然の中で、あらゆる瞬間に実際に何が起きるのか、あるいは起きるに違いないのかについては語ってくれません」(『「私」は脳ではない』)。この意見は、おそらくカール・ポパーの影響を受けている。ポパーによれば、科学理論は反証可能でなければならず、反証可能性のない理論は科学的とはいえない。この定義に従えば、自然法則に関する上記の意見は成り立つだろう。しかし、いみじくもニュートン自らが述べているように、力学は仮説ではない。

たとえば、もしも作用と反作用が等しくないならば、あなたが壁に寄り掛かったとき、あなたの身体は壁にめり込んでしまうだろう。あなたの身体が壁に与える作用よりも、壁があなたの身体に与える反作用のほうが小さかったならば、あなたの身体は壁にめり込み、あなたの身体と壁はひとつの空間に同時に存在することになる。

一方で、あなたの身体が壁に与える作用よりも、壁があなたの身体に与える反作用のほうが大きかったならば、あなたの身体は壁に触れた瞬間に壁から浮き上がり、永遠に壁に接触することはないだろう。

だがそもそも、あなたの身体が壁に与える力と、壁があなたの身体に与える力の、どちらが作用であり、どちらが反作用であるか、誰に決めることができるだろう。すなわち、作用が反作用に等しくない世界においては、上記の二つの現象のうち、どちらが実際に起きるかを決定することはできないのである。

我々は、ニュートンの運動法則が成り立たない状況を想像することすらできない。カント風にいえば、それが我々の理性の限界であり、もっと簡単にいえば、現実にはありえないことなのだ。運動法則は事実を述べているにすぎない。カントはそのことをよくわきまえていたが、この本の著者はカントを理解していないようだ。

3

最後に、宗教に関する議論を確認しよう。

筆者は宗教の価値を認め、それを新実在論によって擁護する。「宗教の源となるのは、いかにしてこの世界に意味が存在しうるのか・・・を理解したい、という欲求です」。「宗教の意味は、わたしたち人間の有限性を認めるところに見て取ることができます」。このような議論によって宗教を一般化することは、宗教の具体的側面を覆い隠すことにつながる。そして、それこそが筆者のねらいである。本当の問題は、宗教の一般的意義ではなく、聖書の真偽である。

聖書によれば神は全能であり、かつ、ユダヤ人と契約を結んだ。ユダヤ人を慈しむと約束したのである。それならば、なぜ神はホロコーストを行ったのか。

神が全能であるならば、ホロコーストも神の御業であることになる。だが、それはユダヤ人との約束に反する。したがって、この神は嘘をついている。なぜ、嘘をつく神を信じなければならないのか。筆者はこの問題にこそ答えねばならない。聖書の嘘を哲学議論でごまかそうとすることは、偽善を通り越して単なる悪である。

筆者の理論を借りていえば、それぞれの宗教はそれぞれの意味の場に存在する。そして、意味の場の真偽は個別に決定されねばならない。「無限なものの直観がひとつだけ存在するのではありませんし・・・真なる宗教が・・・ひとつだけ存在するのでもありません」。実際には、偽なる宗教も存在しうるのだ。

ヨーロッパの歴史は嘘の歴史である。嘘を嘘で塗り固めることを、彼らは無限に繰り返している。

 

彼はまたこうも述べる。「この世の始まりから、たった一つの因果の連鎖が貫いているような、すべてを包括する現実は存在しない」(『「私」は脳ではない』)。彼はここで仏陀の説かれた縁起を明確に否定している。

他方で彼はいう。「一神教の伝統のような特定の宗教に、宗教一般の意味が還元されてはならない・・・ヒンドゥー教や仏教も、宗教という点では同じように価値あるもの」「宗教は、世界を説明するのとは正反対のものです・・・この世の生は夢であるというヒンドゥー教の教えから・・・仏教に言われるこの世からの解脱に至るまで」。彼はここで、仏陀の教説を肯定しているように見える。一方ではこれを否定し、他方ではこれを肯定する。どうしてこのようなことができるのだろうか。

 

彼はまた、利他主義について次のように述べる。「そもそも目的達成を目指して有意義に利己的であるためにも、他者の立場に立ってみなければなりません。そうでなければ、その人の動機を理解し、自分のために利用することはできませんから。そのようにして自分を全ての中心にすることを避けなければ、利己主義はありえません。そして、そこに利他主義の可能性が開けます。利己主義を通して、利他主義は可能になるのです」。

この文章から分かることは、彼は倫理を知らないということだ。倫理とは、自分で実践しなければ意味のないものである。そして、自分で実践しようとしたときにはじめて、それが決して利己主義から導けないものであることが分かる。というのも、その倫理が本当に利己的な目的に役立つものかどうか、判断できない場合があるからだ。誠実であることや、嘘をつかないことが自分にどんな利益をもたらすのか、あらかじめ理解できる人は少ない。だが、それは倫理に反することであるから、絶対にしてはいけない。その理由が分からなくても、だめなものはだめだ。そこに信仰の必要性があり、倫理は信仰に基づけられねばならない。

 

以上、つらつらと新実在論への批判を述べてきたが、筆者の問題意識については共感できるところもある。彼の「意味の場」の哲学は、私が提唱する「意味ニューロン」の仮説とよく似ており、同じ課題に取り組んでいたのだと思う。ただ、アプローチの仕方が違ったし、彼の理論はどう見ても間違っているので、批判せざるをえなかった。

参考:「目的因とは何か」「精神の本質

意味ニューロンの発見』も参照してください。よろしくお願いいたします。

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