Vチューバーについて note版 2018年執筆版(Ver.13-A)

(初出:2021年1月10日(Ver.13-A))
(※2018年にPixiv BOOTHに投稿したものを加筆・修正してこちらにもアップロードした)

Vチューバー。


どうなんだろうなぁ...?

最近正直、ぶっちゃけ「飽きてきた」ようなところが個人的にはある...
食傷気味というか...

確かに面白いしすごいと思うし興味があるかないかで言ったら今も興味はある...かなぁ...?

おととし、去年と年を追うごとに興味自体がうすれてきているような気もする。

以前ほど毎回の動画や配信を逐一チェックし感想をツイートしまくるようなことや、Vチューバー本人からのいいねや返信に一喜一憂するようなことも少なくなってきた...かもしれない...

この記事のもとになっている、他のサイトにおととしぐらいに投稿した原版を読み返すと

[[ほとんどツイッターなどでもバーチャルユーチューバーのことにしかつぶやいていないんじゃないか?というぐらいの勢い。
各キャラのファンやバーチャルさんたち本人からの、ツイッターでの「いいね」や「返信」もそれなりにもらっていて、なんだかそれが生きがいかのようになってしまってるようなところさえある。
病的というか...依存症なのではないだろうか。とさえ思う。笑えない。]]


なんてことも書いていた自分もいるが。

いっぽうそのあとに

[[でも、ただ、なんというか...どこかで一歩引いた、冷めた視点で見てしまっている自分もいたりする。]]

なんてことも書いていた...

どうも一説には”バーチャルユーチューバー”が1万3千人を超えているそうで...


「いすぎだしやりすぎだろう」と。

通常というか一般的というか...なにかしら、どこかしらの会社組織に属して労働し、給与・賃金をもらって生活しているようなおそらく大半...大多数の「生身の人間」にそんな人数でいちどにわぁっとコンテンツを発信されても見きれないしチェックしきれなくないか?と。

そんなに、そこまでの視聴リソースを割けるような時間も現実問題としてないし、その「1万何千人」の中から取捨選択、ピックアップして追うにしてもいささか情報過多・供給過剰がすぎるのではないだろうかという、そんな気がしている。

我々「生身の人間」のからだの構造が、たとえば睡眠や食事などといった行為を必要としない。といった条件があれば、もしかしたらがんばれば3千人ぶんのコンテンツを100パーセントに近いカバー/チェック率で追えるかもしれないが。

結局は芸能人、アイドル、タレントやCD産業といった、既存のマスメディアのワク内でやっていた産業構造の基盤みたいなものと同じで、そこから脱することはできていないのではないだろうか?と。

なにかひとつのものやことがらが話題を呼んだり、商売として成功したり、有名になったらその「ひとつのものやことがら」を模倣・あと追いして右へならえで似たり寄ったりなことをやって飽和・陳腐化して飽きられて風化していく。っていう...
その繰り返し。


外側、外殻が「3DCG」や「モーションキャプチャー」などといった比較的新しい技術を使っている。というだけで。


あるいはそういった技術自体が進歩・進化してマスメディア的範疇での使用に耐えられるようなものになったか...


できることが増えたり、実現や利用のしきいが下がっていままでよりもより簡単に、安価でやれるようになったから。ということでそういった技術を使っている。というだけで。

なにか、「まだ」、たとえば”インターネット”であるとか、新規の、これからのマスメディア的なものを使いこなせていないのではないだろうか、その可能性の広大さに利用者側が追いついていない場合が多いのではないか。とも感じる。

"バーチャル"という言葉やギミックがつけ足されている。という「だけ」で、"Youtuber"という既存のものの上書きだし、その"Youtuber"といえどやってることの大半はテレビタレント的なことを個人やインディーズ、ベンチャーレベルでやっている/中身はテレビのバラエティ番組を踏襲したものの域を出ていないんじゃないかとも思うし、
インターネットやストリーミングメディアを「使いこなせていない感」のようなものを感じさせられたり、また、既存の飽和・陳腐化・停滞・退化・鈍化したメディアエンターテイメントへのカウンターに「まだ」なりきれていないんじゃないだろうか?といった類の違和感めいたものもぬぐえなくて、個人的にはどうもいまいち、いまひとつピンとこない、面白味や魅力を感じることができない。そこまでの「興味」がまずわかない。とくに、こと、ひとが生身でやっているほうの"Youtuber"には。

自分はいわゆる「アイドル・タレント」というものに没頭するような半生を送って来なかった。


どちらかといえば、もともといまのVRがどうこうとかいう流れうんぬんには関係なく、それ以前にもうちょっと漠然と、広義で「3DCGコンテンツ好き」でずーっと来ている感じがまず前提・基盤としてあったりもする。


と言っても単なるコンテンツを享受する側でしかなく、特に本格的に実製作側に回ってなにかしらの実績を残したり、収入を得られたりしているというわけではないのでそこまでえらそうなことが言える立場でもないけど。


ただのパソコンオタク、アニメオタクの延長みたいなものでしかないけど。


ネットスラング的に言えば「3DCG厨」といったところか。

ただ、その「3DCG厨」としての遍歴がヘタに中途半端に長かったりもする。


最初に意識的・自覚的に「3DCG」というものに触れ、その臨場感、存在感、魅力を感じたのは小学校5年生か6年生の頃だっただろうか。中学にはもう上がっていたかもしれない。


「3D」なんだから当たり前といえば当たり前なのかもしれないけど「なんだ!?この立体感」と。


衝撃というか、未知の刺激に興奮と感動を覚えたことは今でもはっきりと、鮮明に覚えている。

同じ「3DCGが使われているコンテンツ」でも、「ゲーム」よりも映画やテレビ番組などの"映像作品"へのほうがどちらかといえばのめりこんでいたかな。と思う。

少なくともいま現在のVRブーム的なところが「全くのVRコンテンツ初体験」というわけでもなく、そのぶんある程度、刺激の種類としては「見慣れているもの」「まったくの"未知”の刺激物でも自分にとってはないもの」。

広義に「3DCGコンテンツ」にのめり込み始めた時期が時期だった...それなりに早熟だったのではないだろうか。というのも自画自賛が過ぎるかもしれないけれども、とにかく、いわゆる「アイドル・タレント」「歌謡曲」「ヒット曲」といった分野にはかけらも興味を持たずに育ってきたようなところがある。

そのせいかただただ「かわいい」だけの偶像にはどうも興味の矛先が向かない。

表層的・外面的に...ただ単に「キャラクターが、外見・見た目がかわいい」というだけでは価値を見出すことができない。

技術面...3DCGモデル自体のキャラクターデザインセンス的出来の良さ、モーション...よりリアルな生身の人間らしい動きの精度、存在感、動画コンテンツとしての楽しさ・面白さ・ネタ力...

ただ「ほらほらバーチャルですよ~」「かわいいですよ~」というだけではなく、そのうえにさらになにか1個魅力...一芸にひいでた要素があったり、なにか"技"みたいなものがないと求心力を感じない。


正直「安っぽいなー」「なめてんなー」「見ているこっちをバカにしてんのかな」とさえ感じてしまう。

これは余談になってしまうけど、バーチャルかどうかにかかわらず"Youtuber"全般について。

よく「編集が~」「大変だ~」などという声を聞き、またコメントを見かけるが、ほぼほぼ個人レベルでたとえば「テレビ」といった巨大な装置、「テレビ局」という「組織」がつくりあげていたようなもの...なにかバラエティ番組のようなモノを踏襲したコンテンツをやろうとすればそりゃあ「大変」にもなるし「大変」なのはあたりまえなんじゃないだろうか?

「え?なに?そこを覚悟してやってんじゃないの?」「それが"やりたいこと"なんじゃないの?」と。

自分も決して頭がいいほうではないが、その私から見ても「これはあまり本当にアタマのいい人物の発言とは思えないし見えないなぁ」と疑問に感じる点も散見される。

毎日のようにハイペースで動画を投稿し、「必死にがんばっている」ふうなコンテンツ発信者がいるいっぽう、

「わずかな動画投稿数でも再生数やチャンネル登録者数を伸ばし、先達に匹敵、肉薄するような活動・活躍をしている配信者」

「"楽器が演奏できます" "ヒューマンビートボックスができます" "イラストが描けます"等の『人にはない、なんらかの秀でた一芸』を、ただ位置の固定されたカメラの前で披露するだけで、その"技"で魅せ、ひとつのコンテンツとして成立させてしまっているような配信者」

というのも「実在」する。

「緻密な編集や構成でつくられ、録画されたもの」ではなく「生放送・生配信を主体としている人物」というのもやはり実在している。

本当に「毎日地道な"編集作業"に時間や労力を費やし、ハイペースでコンテンツを供給し続けること」が、「正解」で「すごい」のか?

必ずしも「それ」がすごくて、えらいのか?という疑問も生じてくる。

「ハイペースでコンテンツを提供する」ということは、そのぶんコンテンツそのものの内容・構成を練り、精査する。という部分の時間や労力が相対的にけずられていくことにつながる場合ははたして本当にないのだろうか?

なんだか延々残業とかして「長時間だらだらと働いている人間のほうがえらい」といった価値観のブラック企業みたいだなぁとさえ感じてしまう。
自らすすんでブラック企業体質化していってるのではないだろうか?と。

コンテンツ供給の弾数で勝負し、確かに「知名度」は上がっていき、しかしその"弾数"を維持しようとコンテンツそのものの内容、クオリティは陳腐化、マンネリ化していく...

「最近マンネリでつまらん」と見捨て、見限って見なくなったはずの、旧来の、前時代のマスメディアと同じところへと結局は帰結していってしまっているのはなぜ?


他者よりもより目立ちたい...なにかしらで他者よりも突出したい、抜きん出たいんだとして、だとすれば「ほかの人間がやらない、まだやってないこと」をやらなければならないのではないだろうか?


「みんながやっていること」と横並びになりにいくという行為はそういった「他者よりも目立ちたい」「突出したい」ということと自己矛盾していないだろうか?


「みんなと同じ」で和気あいあいとなかよしこよし、馴れ合いができればそれでいいのだろうか?

「それでいい」というのならばそれはそれでやっていればいいのかな。とは思うけども...


一時的・刹那的にでも「人気度」や「知名度」という点数を稼げさえすればいいのだろうか?
いや、むしろ「人気度や知名度を得て、それを維持するためにはこれとこれをやらなければならない」といった義務、義務感めいたものに追われてやるようなことがらは、はたしてそれは本当に自発的に「やりたいこと」なのだろうか?


話がそれた。


バーチャルユーチューバー。


ひとつカテゴリーの中にこぞって飛び込んでいき、「流行」とかいうなにか極端にイスの数が限られたイス取りゲームみたいなものを繰り返すような行為ははたして本当に「新しい」んだろうか...

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