狩猟採集の集合住宅(落選案)

昨年10月に建築の勉強を始めてから1年ほど経ち、学校のカリキュラム以外にも色々と興味がわいてきたタイミングで「第15回長谷工住まいのデザインコンペティション」に応募しました。結果は落選でしたが、せっかく頑張って応募したものをそのままにしておくのももったいないので、コロナ禍や課題を考える中で思ったことを書き残しておこうと思います。

コロナ禍に閉じ込められて

私はつい最近まで、他人に深く干渉せず、対人関係に煩わされずに自由に生きるのが都会に住む人間の流儀だと思っていました。孤独ではあるが、気楽でもある。どちらかを犠牲にしなければならないのなら、やはり自分の好きなことに時間を使いたい。しかし、好きなように生きているつもりでも、なんとなく満たされない。
ところが新型コロナウィルスの影響で、たまに会う友人や職場の人間関係と切り離されて自分の住む部屋や街に閉じ込められると、「なんとなく」では済まなくなってきました。人の溢れる街で、複数の人間と同じ建物に住みながら、そのうちの誰とも心の通った交流を持たないというのは異常なことなのではないか?
一方、自室に閉じこもる時間が増えたことで、今まで好き勝手に生きてきた自分と対峙する必要にも迫られました。気の向くままに買った本や映画のDVDが、狭い部屋の本棚や椅子の上、アマゾンの段ボールの中に詰め込まれ、下駄箱やトイレの棚にも入っている。コロナの流行り始めた2020年の春頃は「感染したら2週間は自宅待機か。読書がはかどりそうだな」と気楽に構えていましたが、自粛期間が長引くにつれて、読みたくて買った本、観たくて買ったDVDが色あせて感じ、読書や映画鑑賞にも身が入らなくなってきました。良いものに囲まれているはずなのに熱中できず、退屈している。受け手である自分の側の問題であることは明確です。
そんな折に、友人とオンラインで飲み会をしました。前日に2時間掛けて作った積ん読タワーを見せたり、コロナ前より明らかに増えた友人のアメコミフィギュアを自慢されたり、最近観た映画や作った料理の話をしているうちに、何となく、この満たされなさの解消法がそこにある気がしました。他人の視線や言葉が、閉ざされた個人的で未整理な領域に差し込まれた時、漠とした不安や満たされなさに光が当たり、完全な解消とまではいかなくとも、少しは軽くできるのではないか。
それが、この課題に取り組んだ時期に考えていたことです。

狩猟採集生活から学ぶべきこと

前置きが長くなりましたが、コンペのテーマは「狩猟採集の集合住宅」。
条件は、≪大阪市内で利便性が高く,都心と郊外の中間のようなエリア.周辺には住宅やオフィス,商業,学校,公園,神社などの機能や歴史的アイコンが混在≫するような場所に、≪50戸の集合住宅を想定してください(敷地面積1,000m2,容積率300%)≫というものです。
(↓ コンペのホームページ)
https://shinkenchiku.net/compe/haseko-2021/

そもそも、コンペのテーマでもある狩猟採集生活を送る人間は、集めた食料をあまりため込みません。「ため込まない」というよりは、食料の保存技術が未発達であったり、遊動生活で大量の食糧を持ち運ぶことが困難であったりするために「ため込めない」と表現する方が正確だと思います。それどころか、地域や時代によっては周囲に食料となる資源が十二分にあるために、明日食べるものの心配をする必要さえ無かった。結果として、自分一人で食べきれない食料は周囲の人間に分け与える、平等な社会が出来上がります。
これは、農耕生活によって食料の貯蔵が可能となり、貧富の差や雇用関係、支配関係が生まれる社会とは対比的だし、農耕生活の発展の先に生きている私たちからすると羨ましくもあります。
では我々が今より豊かに暮らすために、狩猟採集の生活や習慣から学ぶべきことは何か。
その一つが≪贈与と共有≫だと思います。狩猟採集を営む人々の中には、狩りで捕まえた獲物の親族内での分配ルールが決まっていたり、必要な道具を所有せずにあえて他人から借りたりする習慣があるそうです。互いに分け与え、共有することによって集団の中でのコミュニケーションが活発になり、平等で円滑な人間関係が作られます。
しかし、集団内のコミュニケーションという点において、現代日本の一般的な集合住宅には大きな欠陥があります。それは、各住戸が階によって明確に区切られていること、そして共用廊下側が扉によって固く閉ざされていることです。その結果、住人は自分の住むアパートやマンションにも関わらず、自分の部屋とエントランス、共用のゴミ捨て場を結ぶ最短距離程度しか移動しません。用のないフロアをフラフラと歩いていたら不審者のように見られるはずです。
コミュニティの活性化を図るための住宅形式としては、リビングをあえて共用廊下側に配置するリビングアクセスや、住戸の入口が共用の庭に面するコモンアクセスなどがあります。北山恒さんの「ヴォイド・インフラ」は都市の中の空地や空き家を利用してパブリックな空間を作る提案ですし、伊東豊雄さんが中心となった「みんなの家」は東日本大震災の被災者のための交流の場になっています。これらは全て、住人同士の交流の場を作ることでコミュニティ形成を促進する手法です。では、贈与と共有が自然に発生するような環境を作り、その結果としてコミュニティが活性化する方法は考えられないでしょうか。

贈与と共有の集合住宅

私の作ったプレゼンボードがこちらです。

画像1


建物の中心に螺旋階段状の共用廊下を作り、その周囲に各住戸を配置します。住戸のスケルトンは共用廊下側の一面が解放されたコの字型で、住人は自分の好みやライフスタイルに合わせて間取りを考えます。当然、通路側も壁や扉で塞がれますが、この際に「共用廊下に面した壁面の一部をガラス張りにする、あるいは壁面の一部を住戸側に後退させる」というルールを設けることで、住戸の一部を他の住人に開放した小さな共用空間の連続が形成されます。
では、住人たちはこの共用空間をどのように作り、演出しようとするでしょうか?せっかく周囲の人々に開放する場所なのだから、自分の趣味や好きなものを駆使して、できるだけ人に楽しんでもらえるような空間を作ろうとするのではないでしょうか?
ここに「自分が好きなもの、楽しむために集めたもの」を「他人に楽しんでもらうもの」として利用するという意識の転換が発生します。それは当たり前の発想のようにも思いますが、自分で所有しているだけでは起こりにくい心境の変化です。結果、他者の視線や意識を取り込み、自分の趣味や所有物を客観視する視点が生まれます。自分の提供しているこの空間、物、情報は他人からどう見えるだろうか?初心者にはアレがあった方が楽しんでもらえるのではないか?自分の説明のここが伝わりづらいのではないか?今まで興味はなかったけど、あっちのジャンルも押さえておいた方が良いかもしれない…。こうしてコレクションに磨きがかかり、知識とノウハウは進化していきます。
また、自分たちの好きなものを提供しあって交流する中で、相手から影響を受けて自分の趣味が変容したり、ジャンルを横断した複合的な趣味や作品へと展開していったりすることは十分に考えられます。
このような進化や展開は、やがて建物内だけでは収まらなくなるかもしれません。1階のギャラリー空間を利用して趣味を共有するイベントや展示を行うことは、住人たちの小さな共有スペースを拡大した、外部への、つまり周辺地域の住民に向けた贈与と共有の行為に他なりません。
また、地域への貢献について考えた時、周辺に暮らす子供たちが安心して遊べ、時に守られるような場が必要ではないかと思いました。通学路の途中に突如現れた、フラッと入っていきたくなるような洞穴の奥に、子供たちの遊び場がある。しかもそこには、建物や近隣の住民による、ある程度固定化された大人の見守りが期待できます。
これら周辺地域への贈与と共有もまた、個人の小さな共有スペースで起こったのと同じように、人々に意識の転換を引き起こさせるはずです。日本人が、外国からどう見られているかを意識することで自らのアイデンティティや自国民とのつながりを感じるように、周囲からの視線が住人たちの連帯意識を作ります。周辺地域からの「あの建物に住む人々」という共通認識が形成され、それを住人たちが意識したとき、抱えきれないほどの荷物を持って集まった個人の集まりが、現代日本の新たな氏族集団へと変容します。

ジャーン!
―完―

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