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ぼくの亡骸

【小説】 ※無料で最後まで読めます

彼女に関するほとんどすべての言葉はすでに言い尽くされていて、その語彙だけで小さな辞書がつくれそうなほどだったけど、それらは要約すればたったひとつの言葉になってしまうから、やっぱり辞書はつくれない。
「嫌い」
というのがその言葉。
みんな彼女のことを嫌っていた。
嘘ばかりつくし、人のものをすぐ盗むし、人がぜったいに言われたくないと思っている、誰の目にも明らかだけど、本人は隠しているつもりの暗い部分を、みんなの前で大声で明らかにしたりする。
嫌われて当然だ。
彼女は嫌われる役目で私たちの人生に関わっている。

あるとき私は家の近くの橋を渡っていた。私たちの町が自慢にしているとても古くて大きな橋だ。私はこの橋が私の家の近くにあることを誇りに思っていた。その下に流れる川の美しさも。

向こうから若い女性が歩いてくる。
素晴らしく美しい女性で、私はちょっと嬉しくなった。
だけどその美しい人は、いつもぼさぼさの頭で汚い格好をしている、嫌われ者の彼女だったのだ。
「やあこんにちは」と彼女は言った。
「こんにちは」と私は返す。彼女に話しかけられたのは初めてだ。
「雨野マリカ」と彼女は言った。
「え?」
「それが僕の名前。知らなかったでしょう」
「うん」
彼女は、彼女。昨日まで彼女の名前なんかに意味はなかった。「嫌い」と言われるためだけの存在だったから。
「今日お姉ちゃんの結婚式だった」と雨野マリカは言う。
「お姉ちゃんがいたんだ」
それできれいな格好をしているのか。
「お姉ちゃんは27歳」
「12歳も年上なんだね」
「干支をぜんぶ殺したら追いつける」
雨野マリカは手にしていた大きな鞄を開けた。
中から、くしゃくしゃになったビニールのかたまりみたいなのを取り出す。
「それなに?」
「僕だよ」と雨野マリカ。
よく見るとそのビニールのくしゃくしゃは雨野マリカの死体だ。穴が開いていて、縮んでいて、汚れていて、もう命がすっかり取り出されたあと。
それを雨野マリカは橋の上から川に捨てた。
昨日までの雨野マリカが透明な速い流れにのまれて消える。
「この川にそんなもの捨てちゃだめだよ」と私は言った。
「でも、これでもう僕は嫌われないのかも」と雨野マリカはほほえんだ。
「この川にそんなものを捨てる人は、みんなに嫌われると思う」
と私は言ったけど、本当はもう、誰もそんなことでは雨野マリカを嫌わないだろう。
「まいったな」と雨野マリカは言った。「僕の家には、僕の悪口を集めた辞書があって、それがどんどん増えていくから困ってる」
「ひとつの言葉にまとめたらいいよ」
「へえ?」
「嫌いっていう言葉なんだけど」
「そんなふうにまとめるのは、僕には無理だね」雨野マリカは川を見下ろす。「ここの川に全部捨てよう。辞書は何万冊もあるんだ。手伝ってくれる?」
「いいよ」
と私は言った。雨野マリカの新しい瞳を見ていたら、私の中身はすっかり塗りかえられてしまって、自分の部屋にある辞書もついでに全部捨ててしまおうという気持ちになった。
家に帰ったら私も、私のことをビニールみたいに丸めてしまおう。
私の亡骸は流行遅れの服みたいに見えるだろう。
清らかな子犬の死に顔みたいに見えるかもしれない。
ペペロンチーノの食べ残しみたいに見えるなんてことも、もしかしたら。
どんなふうに見えても、私はそれをこの透明な川に捨てるんだと思う。
私は今はこの川が大嫌い。



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