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姉の車

【小説】 ※無料で最後まで読めます

私はときどき車酔いしたくて姉の車に乗る。
姉の運転ときたら目には見えないゴルフコースをフルスピードで走っているみたいに出鱈目なのだ。5分も乗ればでろでろ人間のできあがり。でろでろ人間は目隠しなしでもスイカ割りのスイカに到達できない。でろでろ人間は体操選手に向いていない。でろでろ人間は選挙権を持たない。
「どうしてあんな運転をするの」
「何かの暗喩でしょうね」

だけど姉とのドライブで得られる車酔いは極上だ。内臓をいったんすべて取り出して、2歳児に並べ替えさせたみたいな気持ちの悪さ。なにしろ2歳児のやることだから、内臓はなくなっていたり、欠けていたりもする。
ためしにこの車酔いをソムリエにテイスティングさせてみたら。
おそらく姉が育った土地や、受けてきた教育、これまで浴びてきた風の具合なんかも鑑みてこうコメントするだろう。
「夏の朝の高原……三点倒立した少女の心の揺らぎと、現れては消えるカリガリ博士の実験室。果実の甘みと酸味の調和がうええアダムスキー型と呼ばれる空飛ぶ円盤のようにうええコンビニの中を所狭しと飛び回っていますうえええええ

ただ、「この気持ち悪さから逃れたい!」という思考に心が支配されてしまうのは、矛盾する言い方だけど、とても気持ちの良い状態だ。
他には何も考えられないし、考えたくもない。
どんなに素晴らしい音楽を聴かされても「うるさい、黙ってろ!」と即座に言えるシンプルさ。
そんな心境に達したいとき、私は姉の車に乗せてもらう。

姉はかつてひどい交通事故に遭ったことがある。
驚くべきことに姉の運転が原因ではない。
なんと停車中の姉の車に大型トラックが突っ込んできたのだ。
どういうわけだかトラックは紙くずみたいに空中に舞い上がり、太陽のきらめきを背に、ムーンサルトとまったく同じ回転とひねりを加えてから、姉の車のうえに落下した。
姉の車はぺしゃんこになった。
姉はまったくの無傷だった。
「車はぺしゃんこになったのに?」
「胸のペンダントが銃弾から守ってくれた」

夏になったら髪を切ろうかな、と姉はもう8年も言い続けている。
オープンカーに乗ると、姉の髪はまっすぐ風になびいて魚みたいだ。
イサドラ・ダンカンのスカーフの話を思い出す。姉の髪もいつか車の後輪に巻きついて、姉の命を奪うのかも。などと私はぜんぜん思ってもいないことを思ったりする。

姉の髪の長さだって、きっと何かの暗喩といえば暗喩だし、
姉の運転も
姉の交通事故も、
姉に車酔いの経験がないことも、
私が運転免許を持っていないことも、
誰かに言わせれば、神が人間に与えた暗示のひとつ。
だけどそれらをいちいち読み解いて、世界の仕組みを明らかにする作業に私は荷担しない。
姉が髪を切りそびれているのは、美容院が遠いからだと私は思う。

「ふしあわせそうな女を演じるのは、朝食の卵料理の味をわからなくさせてしまうから、もうやめた」
そんな気取ったことを言っても許される姉は、大きいサングラスを装着してハンドルに手をかけた。
アクセルにつま先が乗る。
私は助手席で小さくかかとを鳴らす。
期待感で指先にちりちりと電流が走っている。
ああもう早くして!
これは性的衝動の暗喩でしょうか?
私の人生がぜんぜん思い通りにいかないことと関係があるのでしょうか?
なんだっていいよ。
とにかく1秒でも早く車酔いしたい気分なんだよ!





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