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俳句夜話(6)幻想俳句集団「む」主宰、流智明のこと

私がかつて所属した結社の中で、もっともおもしろく、もっとも不遜で、やがて立派に空中分解し、主宰はそれからしばらくして蒸発し、そのまま消えてしまったという、幻想俳句集団「む」(のちに「む印俳句」)の俳句を紹介したいと、今夜はそのつもりだったんですが、その前に、主宰の彼のことを書きましょう。

名は流智明。西洋占星術の世界では草分け中の草分け、ルネヴァンダールさんなどはお弟子、孫弟子まで数えたら数百人になるような大御所。

その失踪ぶりたるや。実に見事なもので、まったく手がかりのないままもう20年以上経つ。失踪というより蒸発そのもの。人間、こんなふうに蒸発できるのか、彼は気体にでもなったのか。

私は占星術についてはまったく習わなかったけれど、人生の師と仰ぐ一人。詩論俳論はもちろん、哲学や神秘学、酒やグルメ、風刺やニヒリズムを間近に実地に教わった。

失踪したのは1999年1月29日あたり。同人にその連絡が入り始めたのがその2週間後くらい。1月29日は彼の誕生日である。

「流さんが消えました」

当時はまだ電話連絡が主で、この文言で回ってきたのをよく覚えている。
いなくなりました、行方不明です、とはだれもいわない。さすがは俳句を嗜む同人だと、変な感心をしたことも記憶に新しい。

彼にはノストラダムスの著書もあったので、1999年7の月を見届けずに死ぬわけがない、だから自殺はない、どこかでひっそりと世界を見ているのだ、何かあったら、ほら当たったでしょと出てくるのだろう、何もなかったらなかったで適当なこといって出てくるにちがいないと甘く見込んでいたのだけど、出てこなかった。

私は、晩年の、最後の弟子みたいなものだったので、1万冊にも及ぶ蔵書を片付け、生活道具もすべて片付け、価値のありそうな本は売って滞納した家賃にあて、警察にも行き、預金を整理し、これから振り込まれてくる原稿料を管理し、お金を貸して踏み倒された人たちに事情を説明して回った。売りきれなかった千数百冊もの本を形見として、また借金のかたとしてくれと、関わりのあった人たちに広く声をかけ、お別れ会をやったのは失踪から1年後のことだった。驚くほど、集まりは悪かった。

親族じゃなければ捜索願を出せないということを知ったのもこの時だった。そうじゃなければ、サラ金業者の依頼ばかり受けることになるだろう?と、四谷警察署の精悍な感じの刑事は教えてくれた。
私は、物書きをしているらしい娘さんがひとりいることを思い出し、探しだした。捜索願をだしてもらえないかと頼むと、彼女は静かに、しかし一切迷いはないという調子で、もう何十年も前に縁を絶ちました、関わりのない人ですと電話口で言い切った。

自由に生きるということはこういうことなのだと、私はあらためて思った。流さんは自由人だった。それも完全無欠の。彼のそういう生き方も然ることながら、その自由論からも私は多くを学んだ。今でも、その論点でよく議論をする。死ぬ自由も殺す自由もあるだろうと考えているものが、あるとき橋の上から飛び降りようとしている少女と出くわす。彼はそれを止めるわけにはいかないはずだ。しかし、彼は少なくとも事情を聞こうとするのではないか。これは何を指し示しているのか。

また、酔っ払ってぼくが転んで(彼は自分を「ぼく」と呼んだ)、頭を打って動けなくなったら、そのままほっぽっておいてほしい。もし助けたら、最後まで面倒をみてくれるものだと見なす。などと酒を飲むとよく言った。そうしますと答えるものと、そういうわけにはいかんでしょうと言うものとに分かれた。そういう意見分かれを彼は好んだ。

彼は、愛を持たない人間だと自称していた。愛するって、わからないんだよね。H君(わたしの名前)はだれかを愛してるの?そんなことを突然聞いてくる。しかし、そう言いながら、与太郎という名の老猫を愛してやまなかった。これが愛なのかね、とよく自問なのか、こちらに聞いているのかわからないような質問をした。

彼の蒸発のきっかけは、おそらく与太郎が死んだことだ。この理解が我々の彼への最大の敬意であり愛だった。彼が決してそんなものは余計だ、要らないと言わないであろう、彼への敬愛。

彼は割り勘が嫌いだった。けっこうな原稿料や印税、また選挙がある年は占い料が巨額で、羽振りのいい時は何人で飲もうと、吟行の旅行代までぜんぶ払おうとする人だった。たいがい、半分をみんなで割り、半分を出してもらった。そういう世話になった人は私たちの仲間以外にどれくらいいたのだろうか。少なくとも十の単位ではないはずだが、お別れ会に集まった人数とそれぞれの別れの言葉は、私に様々なことを教えてくれた。恩知らずで興味本位。人間はそんなものだ。

そんなものだと、ぼくが言ったとおりだろう?
流さんは、どこかから自分のお別れ会を覗いていて、そう嘯くのだ。

私がいま、後進のものにおごるとすれば、ひとつには流さんからのペイフォワードである。魂の存在を疑わずにいるのも、ひとつには彼の影響である。皮肉とニヒルは生来のもので家系によるものだと思うが、流さんの影響で明らかに拍車がかかった。

人と出会うことはおもしろい。ちゃんと出会えてさえいれば、たとえいなくなったって、さして変わらない。思い出し語り継いでいる限り、その人間は死んでいない。だれに教わったか、本を読んだのか忘れてしまったが、いやまさに流さんに教わったのか、インディアンの死に関する教えは私を貫いている。

人は二度死ぬ。一度目は肉体の死。二度目は、その人間を直接覚えている人間がすべて死に絶えたとき。友達に不幸があったときに話すことが多い。この教えは遺されたものに二つの事柄を指し示す。一つは、亡くなった人のことを大いに語ろう、語り続けようということ。もう一つは、遺された者はなるべく長生きをすること。そうすれば彼の命は長くなるのだから。

もう、お腹いっぱいですね。俳句の紹介はまたの日を選びましょう。

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