【死語の世界】 第二十六話 『ふてえ』
神経が太いことである。度胸があり、何事にも物怖じしない。太いでもいいが、「ふてえ」といえばより臨場感が増す。図太いとかふてぶてしいとか、心臓に毛が生えてるようとか、面の皮が厚いとか、だんだんあつかましいという意味になるが、これらとはちょっと違う。だって、「ふてえ」は半ばいい言葉なのだから。
今もよく使われるのは「図々しい」だが、「ふてえ(太い)」とはニュアンスはまったく異なる。辞書で引っ張れる意味としては、「あつかましい」は、恥知らずで遠慮がないさまを表わし、「図図しい」は、相手の都合や気持ちなどを全く考えずに身勝手に振る舞うさま、「ふてぶてしい」は、無遠慮かつ大胆で、こわいものは何もないといったさまを表しているとなっている。
では「ふてえ」はどうか。あつかましい、図々しいなどが出しゃばる態度であるのに対し、「ふてえ」は泰然とした構えのことだ。それでいて、目はしが利く、機転が利くのだ。何かを売りたいやつがここにいて、あっちに買いたいやつがいたとする。それらの相談に乗りつつ二人をつなげて、双方から手間賃をもらっちゃうような調子のよさ。これが「ふてえ」である。どんなにどっしりとしていても、ただ鈍重なだけの人間は「ふてえ」とは呼ばれない。バカはふてえやつにはなれないのだ。
ふてえやつは敵にいると厄介だが、味方にいてくれるなら頼もしい。ここも図々しいやつとはちがう。
イメージとしては、日本映画の傑作『幕末太陽傳』の居残り佐平次が近い。演じるフランキー堺の機敏さ、反射神経のよさ、どんなことがあってもへいちゃらでいる感じ、人間みんないつかは死んじまうんだみたいな諦念、あるいはニヒリズム、それが「ふてえ」である。
子供の時は町内に一人か二人、「あいつはふてえ」と呼ばれる男がいたものだ。おそらく本人もそれをもって任じていたに違いない。自分は謙遜屋だとはまちがっても思っていなかったろう。私は子供の頃、そういう大人になるのもいいのではないかと心中密かに思っていた。
自覚から言えば、自分は太いほうです、などというやつはふてえ野郎にも思えるが、実は繊細で虚勢を張っているのかもしれず、自分、ナイーブなんで、などといって、そこからなにがしかの得するものを引き出そうとするやつのほうがよほど太い了見を持っているにちがいない。
言葉がなくなっていくのは、ふてえ野郎が実際に減っているということなのだろう。実にさびしい限りであるが、このご時世、復活する兆しは見えない。ふてえ態度でいても、それに見合った結果が出ないからなのか、理由はわからないが、とにかく流行らないという感触だけは確かだ。
ちなみに「太い」は、利益が出るいい筋の仕事だというような意味でも使うが、こっちも使われない。いやイマドキ使えないのか。そんな仕事は存在しないのか。
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