外の人(3)
「じゃあ明日はそんなに早起きしなくて大丈夫だね。」
私は彼女を真っ直ぐ見つめ、語り始める。
「じゃ俺の車で迎えに行くよ。その方が早いし。途中で鈴木部長も乗っけてくけどいいよね。本当はもう少し人数乗せた方が高速代安なって助かるんだけどさ、俺の車そんなに大きくないから4人が限界かな。大泉インターが一番近かったよね?」
突然、ひとりで喋りだした私。まずいきなりひとり言を始めたことに驚き、周囲は私の方へ振り向くだろう。そして目の前に座る彼女も、気が付いて思わず私の顔を見るだろう。いや、ひょっとしたらイヤフォンをしているから気づかないかもしれない。そうしたらもう少し彼女の方へ私から顔を近づけ、とはいえあまり近づき過ぎて威圧感を与えない距離、ごく自然に聞こえやすいようほんの少し身を屈めたような恰好で、改めて彼女をしっかりと見つめながらまた語りかける。
「大泉インターが一番家から近いよね。たぶん20分もかからないと思う、俺ん家から。近くに何かあったっけ、目印になるようなの。確かローソンがあったよね。あれセブンだったっけ。ほら、去年栃木の方行ったとき、集合場所にしたとこ。あの、駐車場大きいあそこにするのはどう。わかりやすくていいじゃん。」
まるで最初からお互い知り合いで、あたかも先ほどの話の続きをするように、ごく自然に私は彼女に話しかける。私の目はしっかりと彼女の目を見すえ、電車の雑音にかき消されないよう、ちゃんと彼女にも聞こえやす声の大きさ、トーン、速度感を持って喋る。
さすがに彼女も、この男が他でもない自分に話しかけているのだと気づく。あまりに突然のことに、彼女は驚いて少しビクリと跳ね上がるだろう。また全く知らない人間が距離を近づけてきたことに、自分の親密圏に他人が無造作に侵入してきたことに驚き、怯え、思わず体を捻るようにしてしりぞくだろう。近づけられた私の顔から少しでも距離を取ろうと、本能的な防衛反応から体をよじるものの、座席に腰かけた彼女には瞬時に十分逃げられるほどのスペースは無く、結果後ろに少し仰け反るか、あるいは右か左かとちらかに座っている別の乗客側へ無理やり詰め寄るような形になる。
明らかに恐怖と拒否反応を示す彼女を無視して、私は話を続ける。いかにも打ち解けた親しい口調で、口元にはごく柔らかい笑みを、しかしいやらしい不気味な印象は与えないよう自然なアルカイックスマイルに留めて、彼女にもちゃんと聞き取れるよう落ち着いた喋りをすることに注意しながら、私は優しく明るく彼女に語りかけよう。だがここからはもう少しボリュームアップする。音量の話ではない。内容のことだ。
「栃木は面白かったね。みんなでトーテムポールを作ったじゃん。あのとき先っちょに刺す干し首が見つからなくて、みんなでドン・キホーテを回ってさ。それでも見つからなくて、仕方ないから田中の首を刈ろうぜってなった時、あの時の田中のセリフ、俺、今だに時々思い出して笑っちゃう。『無理無理無理無理!絶対、無理!!俺、トロンボーンが吹けなくなっちゃうよぉ』ってやつ。覚えてるでしょ。あれは爆笑だったな。で、結局田中は浜辺に捨てられてた冷蔵庫の中に閉じ込められて、そのまま海に流されちゃった。それ見て山田が、『田中さん、モンゴル人初の宇宙飛行士みたいですね』って言ってさ。もうほんと、笑い過ぎて腹痛かったわ。」
突然のことに最初は真っ白だった彼女の頭の中も、この間すぐに高速回転を始め、この状況を整理、処理して対処し始める。まずこの目の前の中年男、知り合いでないことを確認する。にも関わらず、この男は私に向かって話しかけている。そして話している内容——全くもって意味不明である。何を言っているのか全く理解できない。これらのことから、大した時間を要することなく、彼女の脳は即座にひとつの結論を導き出す。
『ヤバイ、これヤバイ人だ。』
今の彼女にとってそれ以上の分析も考察も必要ない。ヤバイ人、きちがいに絡まれた。どうしよう。どうしたら良いだろう。それだけが今の状況を説明できる全てであり、今すぐ考えねばならないことの全てだ。まず彼女が思うこと、それはこの男に刺激を与えるようなことをしてはならない、ということだ。「何ですか?」とか、「私に言ってるんですか?」などと言葉を返すなどもってのほか。それは相手に乗ってしまうことだ。そんなことしたらこの男を喜ばせてしまい、何かさらにエスカレートさせてくるかもしれない。気ちがいに対し通常の人としての対応は逆効果だ。とにかく反応してはいけない。
もしこの目の前に座る彼女がいたって普通の女性で、鼻っ柱が強く喧嘩早いあるいは気ちがいと戯れるのが好きな変態でない限り、大体このように考えるだろう。よって彼女が私に対して取りうる反応は、ただひとつ。無視すること。じっとうつむき、視線を落とし、決して私と顔を合わせないよう頭も肩もこわ張らせ、ひたすらこの気ちがいという嵐が過ぎ去るのを耐えることだ。
もしこれが停車中の電車だったら、迷わず彼女は飛び上がり、目の前に立ちふさがる私に必死に触れぬよう体を捩りながら、座席とつり革を握る私とのわずかの隙間をすり抜けるように脱出し、乗車ドアから外へ飛び出していくだろう。もしくは彼女が冷静さと度胸を兼ね備えた人だった場合、そこでも油断を怠らず、やはり目の前の気ちがいを刺激し興奮させないよう細心の注意を払いながら、あえて急がず普段通りのスピードで落ち着いてかつ迅速に席を立ち、あたかも当初からそのつもりであったかのようにごく自然な体でその駅から降りていくかもしれない。いずれにせよ、彼女が一刻も早く私から逃げたいと思い行動に移すことは間違いないだろう。
さて、問題は次に私がどうするか、ということだ。逃げ去る彼女に向かってまた何か言葉を吐き出す。みっともない。往生際が悪いというか、単に私のせいで彼女が列車から追い出されるはめになったという事実を確定的にするだけだ。彼女が列車から降りるのを妨げる。路を塞ぐか、あるいは何か身体的な接触をして直接妨害する。卑劣漢極まりない。いやまぁ、そもそも見ず知らずの女性と分かった上で一方的に話しかけている時点で十分卑劣なわけだが、それでも越えてはいけない一線というのがある。体に触れるのは暴力だ。痴漢だ。私は彼女にいやがらせするこを全く目的としない。また彼女が嫌がる姿を見て何か興奮を味わいたいわけでもない。しかしこれ以上何かすれば、いやもうやってることはそれに等しいわけだが、変態のそれと変わらない。私は変態ではない。よって彼女が立ち去ろうとすれば、すみやかにスペースを空け彼女の退路を確保し、黙ってそれを見送ることだろう。いや、見送らず、振り返らず、もはや一瞥も与えず視界から意識から外そう。その方が返って異常性が際立つ。
いよいよここからが問題、彼女が去った後のことである。問題とは、「この後どのようなキチガイ行動をとるか」だ。一部始終を見ていたすぐ近くの乗客は、あっけに取られていることだろう。何が起こったのか、喧嘩か、痴漢か、何が起こったのか状況が理解できず、しばし混乱するばかりだろう。しかし、勘の良い者はすぐさま身をこわばらせ、私と絶対に目を合わせぬよう視線を逸らす。その人たちの心中は一致している。「次のターゲットに自分がなりませんように」という願いであり、恐怖だ。
私はそれを感じ取るように、周囲の人へ目を配り、次のターゲットを物色しはじめる—というようなことはしない。もはや同じように他人に意味不明な独り言をぶつけたところで、何の面白みもない。むしろ私はそんな彼らの恐怖心に対して「誰がお前等の思い通りなるか」という心持ちで、まったく意外な行動をとりたい。
しかしここでまた別種の異常行動をとったところで、キチガイが別のパフォーマンスを始めた、ということにしかならず、ある意味意外性のない予想の範囲内のものだ。判断の早い者は自分に粉がかからないうちにさっさと車両を移動するか、とにかく私から距離を取ろうとするだろう。また周囲の人間が抱く恐怖心も、「自分」が異常者に何か変なことをされたくない、迷惑したくないという全く単純な自己保身の反応であり、距離さえとっておればさして恐ろしくない、むしろ対岸の火事としてニヤニヤ見てられる非日常、日常の「中」の〈非日常〉として、ちょっとしたスパイスとして楽しめるに違いない。
そうではダメなのだ。そんな調和内の、ご飯が進むピリ辛レベルのスパイスなど、なんの価値もない。私はこの、何の変哲もない普段通りの車内の空気が歪んだ、その一瞬を吸い込みたいのだ。車内のLED照明と窓の外の闇がマーブル模様に溶け合うようなまどろみ、同時に掴んだつり革が手に食い込むような感覚の鋭敏さ、そんな混乱と覚醒が交じり合うような、現実がひしゃげ捲り上がったその端部を舐めたいのだ。
耳の奥に熱がこもるような感覚を覚えながら、私は妄想の続きの中へ没頭していった。(つづく)
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