手渡された花はすぐ花瓶に活けるに限る

2年前、初夏。山田祥雲は俳句甲子園地方大会那覇会場に彗星の如く現れた興南高校チームの一員だった。
対戦した試合のあとの彼の言葉は今でも忘れられない。

「金城 果音さん(私の所属していた文芸部の1つ上の先輩である)と浜﨑 結花さんは怖いと伺っていたので……」

初対面で怖いと言われる経験は初めてで、思わず壇上で苦笑してしまった。
それをネタにして「おい山田」と呼び捨てにし始めると、最初は恐縮していた彼も「おい浜﨑」と私を呼び捨てるようになった。
それから2年が経ったなんて、今でもちょっと信じられずにいるぐらい月日はあっという間だった。
彼とは今でも句会で一緒になるし、俳句の話がしたければすぐLINEで話す。同じ沖縄ということもあり、彼の作品を目にする機会が多かったせいか彼は私の「推し」俳人となった。
そんな「推し」である彼が、私の誕生日を目前にして手作りの句集をくれた。きちんと製本された真っ白な本に、手書きで句が綴られている。
タイトルは「花を綴づ」。これからこの1本1本を大切に受け止めながら、花瓶に活けることにする。そのすべてをここで取り上げることはできないのだけれど、少しでも輝きを伝えられたらいいと思う。


会ひし日に呼び捨てたよな吾亦紅

吾亦紅は秋の季語。小さな、暗い赤みを帯びた花だ。
前述のエピソードをモチーフにした句なのだろうが、「会ひし日」という過去を思い返す中で吾亦紅の色味や秋の季感がどことなく郷愁を呼び起こす。
文語の句なので「よな」は感嘆の意と読んでいいのだろうか。詠み手にとっても「会ひし日」は懐かしく、思い出深いものなのかもしれない。

秋色やみづの重さの花瓶据ゑ

こちらは私の拙句、「秋色やみづの重さの海ぶだう」のオマージュのようだ。
中七までは全く同じ楚辞を用いて、下五で異なるものを描いている。原句の雰囲気を感じさせながら締めの5音でまったく違う景を見せる転換のうまさに驚かされる。
また、オマージュとして読まずとも、この句の魅力は1句としてきちんと独立している。
「据ゑ」という動詞の選択が水の、そして花瓶の重さをしっかりと描いている。また、「みづの重さの」という楚辞で読者にいろいろなイメージを抱かせつつ下五で「花瓶」を見せている、種明かしになっている語順もおもしろい。


山茶花のゆつくりとほろびるかたち

表記がとにかくあざとい。表記にはこだわりがあると自負しているものとしてはこれは解説せざるを得なかった。
植物というものはそう一気に枯れるものでは無い。「ゆつくり」、日を追う事に枯れていくものなのだが、中七下五のすべてひらかれた表記はそれをうまく表している。
色も薄れ、萎れ、それでも完全には朽ちていない。これまでもこれからも、この花はきっとゆっくり朽ちていくのだ。そうして完全に滅びるまでの景色を読者は頭に浮かべずにはいられない。


人殺す夢の涙や百合うつむく

こちらも拙句、「人殺す夢のたしかさ瑠璃蜥蜴」のオマージュと見た。
百合の咲く季節、夏。もしかしたら熱帯夜かもしれない。寝苦しい中で見る夢で人を殺してしまった。
激しくというよりは穏やかに、静かに泣いているような印象を受ける。そう感じさせるのは下五のフレーズの力だろうか。
百合がうつむいて見えるのはもしかしたら偶然かもしれないけれど、そこには作者の抱いている罪悪感や動揺がはっきりと見える。
「百合」の香が寝覚めのぼんやりとした意識により強く訴えかけてくる。


手渡して後は知らずや夏の菊

作者は誰に、何を手渡したのだろう。夏の菊とも読めるけど、私はそれ以外のものとして読みたい。その方が想像も広がるし、その上で季語の取り合わせの意味を考える方がこの句を面白くしてくれる気がする。
夏菊は旬である秋の菊に比べ、小型ですっきりとした印象を与える花。「後は知らずや」という作者の感情とこの季語の取り合わせはよく響きあっている。
「後は知らずや」ということは、作者は別に反応などを気にしているわけではないのだろう。手渡したいと思ったから手渡した。あっけらかんとした、夏の光のような明るさで。



引いた句は思っていたより少なかったけれど、思い出を重ねながら読むとどうしても深読みしてしまいそうで控えめにした。
タイトルに反してこれを公開するのに2ヶ月もかかってしまった。「手渡して後は知らずや」の作者だからきっとこれを読んでも「へえ」としか思わないかもしれないけれど、手渡したものがこうして心に届いていることが少しでも彼に伝わればいいと思う。改めて、ありがとう。

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