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天才アーティストたちへのLOVE

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天才アーティストたちが 時代を超えて残してくれた”ギフト”について。 愛するアーティストたちへの、私の思いを書いていきたいです。 https://www.haikara-art.… もっと読む
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記事一覧

再生

ニコラ・テスラのインタビューで生声が聞けます!

これはニコラ・テスラの "失われた "インタビューである。 そのインタビューの中でテスラが表明した考え方は 非常に革命的であったため、その内容は何十年もの間、隠蔽され 隠されてきた。

吉田博のここが凄い!天才性に思うこと

画家、吉田博は”絵の鬼”と言われた日本の天才画家です。 どの本でも巨匠であることが表現されています。 2021からあちこちで吉田博展も開かれましたが 私はその前2020年に福岡に観にいきました。 その時の私の感想です。 吉田博の芸術は他とは全く違っていました。 ではどこが違うの? 吉田博の凄さは何なのか・・考えてみました。 吉田博が絵が素晴らしく上手いことは言うまでもないのですが、 それがどのくらい上手いかというと、 まず一つは、絵を完成させるのがすごく早い! 海外を

神業天才絵師、伊藤彦造と若きアメリカ兵士。

私が初めて伊藤彦造のペン画を見て感じたものは 圧倒的な情熱と誠実さでした。 どの本だったのか忘れてしまいましたが、そこに書かれていた 彼のエピソードに私は胸を打たれ涙しました。 大正から昭和にかけて大衆雑誌の細密な挿絵で一世を風靡した 伊藤彦造という天才絵師の解説の後、 私の感想です。 ここには書かれていないことなのですが 彦造さんは第二次対戦後、戦争画を描いたことで戦犯容疑を受け、 米軍座間キャンプに収容されました。 そこで彼はマッカーサーのために聖母マリアやキリス

画家ニキフォルの映画に思う -知られざる天才画家の肖像

私がニキフォルを知ったのは、20年ほど前。 友人にニキフォル展の画集を見せてもらいました。 その友人がニキフォル展に行ったのもその時から10~20年くらい前だから とても貴重な図録です。 宝物のように、ゆっくりと1ページづつめくってくれて 私は本当の絵を見ているような感じがしました。 なんと言えばいいのか・・よかった! 目に焼き付けたくなるような配色。 美しくて、だけどせつない。 「あ〜これが人間だな。」そんな感じがわいてくる人物描写。 あなたのことをもっと知りたい、そう

グレングールド バッハを語る

グレングールド バッハを語る グレングールド (1932〜1982)カナダのピアニスト 作曲家 グレングールドがピアノを弾きながらバッハについて話します。 私なこの動画を見て「音楽は時間芸術」の理解に近づけたかな?そんな感じがしました。 翻訳もあります。 グールドがゴールドベルク変奏曲(Goldberg Variations )を弾いた後 のところから--- 1.03.40あたりからが面白いです。 バッハの音楽の素晴らしさをグールドが情熱を込めて語ります。 バッハの音楽

濁りのない観察の目から生まれる宝石のような作品〜小原古邨

〜 小原古邨の子ども時代 〜 古邨は日本の季節の色彩と生き物たちの姿を 天才的な観察力によって生涯描き続けた画家です。 その作品のどれもが丁寧に描かれ、 自然や昆虫や動物たちへの愛の眼差しが 向けられています。 古邨についての経歴や資料はとても少なく 詳細に知ることはできません。 なので古邨についてわかっていることを元にして 私の思うことを書いていこうと思いました。 今回は古邨の子ども時代について。 古邨の父は加賀藩に仕える家臣で祐筆でしたが、 古邨が5歳の時に他界

小原古邨の花鳥風月〜美しい木版画の作品です。萩とうさぎ

干支のウサギの額絵を飾りませんか? 青海波の透ける模様を持つ 手漉き和紙に美しくプリントされた 古邨の自然と生き物の姿。 青海波の広がりゆく波と末広がりの扇のデザインは良いことが起こる吉祥模様です。 *和紙 美濃和紙 主にコウゾと呼ばれる植物から作られ、植物の繊維が絡み合うために薄くとも強靭で長い寿命を持ちます。青海波の透ける柄は日本古来の模様で、漉きたての紙に水をたらして出来たものです。手漉きの紙は自然な縁を残した深い味わいが特徴です。 ユネスコ無形文化財に登録されてい

私は自然を崇拝する側に立ちたいー吉田博

#オンライン展覧会

グレングールドのフーガのお話作りました。

フーガとは 〘名〙 (fuga) 多声音楽の様式の一つ。主題が提示され、それに答えるように属音度に移調された同形の旋律が現われ、先行主題を追いかける形で反復される楽曲。バッハの「フーガの技法」は有名。遁走曲。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 --------------------------------------------------------------------------  フーガについて、 私なりに考えてみました。  ”

売ることを誰が教えたのか?-夢二

「東京災難画信」四、都新聞 大正12年9月17日掲載 夢二によるルポ:煙草を売る娘 やつと命が助かつて見れば、人間の欲には限りがない。どさくさの最中に、焼残つた煙草を売ってゐる商人の中には定価より安く売つたものもあれば、火事場をつけこんで、定価より二三割高く売つた商人もあつたと聞く。高く売る者は、この際少しでも多く現金を持たうとするのだし、安く売る者は、たゞの十銭でも現金に換て、食べるものを得なくてはならないのだ。三日の朝、私は不忍の池の端で、おそらく廿と入つてゐない「朝日

施すものと施されるものがいた-関東大震災

「東京災難画信」三、都新聞 大正12年9月16日掲載 市役所の施しの自動車が、何か合図したのか、時刻を知つて待つてゐたのか、永楽町のある四辻へ自動車がとまると、その辺の塀の蔭から、社宅の裏門から、ぞろぞろ血を持った男や女が、一斉に走つて出た。車上の男が、「二列に並んで下さい」と号令をかけると、逸早くずらりと二本の人間の線が出来る。私は、不思議なこの二本の黒い線を暫く見てゐた。その方へレンズを向けると、中でも年若い男は、それを見つけて非難するするような険しい顔をするものと、少

竹久夢二 関東大震災を描く 1

 〜 竹久夢二が描いた関東大震災 〜 朝日新聞デジタルで夢二の興味深い記事を見つけました。 関東大震災(1923年)直後、がれきの山と化した東京の街を歩き、スケッチをし続けた画家がいる。美人画で知られる群馬ゆかりの画家・竹久夢二だ。そのペン画や下絵14点などを展示する特別展「夢二の目に映る関東大震災」が、渋川市の竹久夢二伊香保記念館で開かれている。夢二が東京の惨状をおさめた数々の絵は「東京災難画信」と題される。「都新聞」(東京新聞の前身の日刊紙の一つ)に、夢二が執筆した原

命だけもった人々-関東大震災/夢二

初回号「東京災難画信」一、都新聞 大正12年9月14日掲載 昨日まで、新時代の伊達男が、所謂文化婦人の左の手を取って、ダンシングホールからカフェーへと、ヂヤツク・ビツクルの足取りで歩いてゐた、所謂大正文化の模範都市と見えた銀座街が、今日は一躍数里の焦土と化した。 自分の頭が首の上に着いてゐることさへ、まだはつきりと感じられない。 化学も、宗教も、政治も、暫く呆然としたやうに見えたに無理はなかった。大地震の意図を誰が知つてゐたらう。自然は、文化を一朝一揺りにして、一瞬にして

知識の外のある力を信じる人々-夢二の記事

「東京災難画信」二、都新聞 大正12年9月15日掲載 浅草観音堂を私は見た。こんなに多くの人達が、こんなに心をこめて礼拝してゐる光景を、私ははじめて見た。琴平様や、増上寺や、観音堂が焼残つたことには、科学的の理由もあらうが、人間がこんなに自然の惨虐に逢つて智識の外の大きな何かの力を信じるのを、誰が笑へるでせう。 神や仏にすがつてゐる人のあまりに多いのを私は見た。 観音堂の「おみくじ場」に群集して、一片の紙に運命を託さうとしてゐる幾百の人々を私は見た。それは必ずしも日頃神信