『ワタナベさん』のこと。そして非営利へ

2月の突き刺す寒さに触れるといつも思い出す。もう、10年以上前のことになる。

2008年2月24日、東京に数十年ぶりの大寒波が襲った。前日、事務所で天気予報を見ていた私は、いつも夕方にダンボールを集めに来る『ワタナベさん』に「明日は、大寒波が来るみたいだから気をつけて」と伝え、くたびれたリアカーにいつものようにダンボールを積むのを手伝った。

当時、食品業界への復帰前の罪滅ぼしのつもりで、セカンドハーベスト・ジャパン(2hj)でアルバイトとして関わっていた。捨てられる運命だった食料(賞味期限前)を集めて、生活困難を抱える層に無償で届けるフードバンク活動だ。日々、山のような食料をトラックで集荷し、提携施設に配達する。戻ると狭い倉庫に積みなおす、肉体労働だった。廃棄するダンボールは、多ければ1日に100kg近くにのぼる。資金の乏しい非営利団体だし、売れば多少のお金になる。しかし、2hjは『ワタナベさん』に全て任せることが以前から決まっていた。そのころ、浅草橋・秋葉原の界隈には段ボール集めのおじさんがたくさんいた。定期的に大量の食い扶持があるため、自分に譲ってくれと打診されたり、持ち去られそうになりもしたが、代表のチャールズが断固として『ワタナベさん』にこだわった。

ダンボールで満載にしたリアーカー1台は、相場にもよるが数百円にしかならない。集荷場へ日に数往復しても1,000円から、良くても2,000円ほどが彼の稼ぎのようだった。どこに住んでいるのか、どんな生活をしているのか?踏み込んだことは聞かなかったし、聞けなかった。お腹を空かせているのではないか?と思い、たくさんある食料を渡そうとしても受け取らない。自尊心と、プライドを持って仕事をしていた。

『ワタナベさん』は身長150cmくらいの小柄なおじさんだった。黒く日焼けし、刻まれたシワから60歳くらいに見えたが、いま思うともう少し若かったかもしれない。自分から多くは語るほうではなかったが、二言三言は交わしていた。

「兄ちゃんは。いい体しているからなんでも仕事できるな。体を大事にしろよ」

「おたくの大将(チャールズ)は、アメリカ人だけど本当に素晴らしい人だ。しっかりついていけよ!」

「若い頃に、地方から出てきて、日雇いで働いていた。そのころはよかったな。この頃は、いまの仕事だけどね」

大量のダンボールをリアカーに積み終え、散らかっていたゴミを綺麗に掃除すると、小さい体をさらに低くし、いつものように丁寧にお辞儀をして去っていった。

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翌朝。

「ワタナベ」さんは事務所のすぐ近くで亡くなっていた。『凍死』だった。


自問した。

・寒波が来るのだから、事務所の中に泊めてあげられたのではないか?

・お金を渡してカプセルホテルにでも泊まらせてあげたら?

・どんなところで寝ているのかをなんで確認しなかった?

・福祉制度(生活保護や一次保護)につなぐことは、できなかったのか?

と、寒波を知っていた私が、最後にできたであろうことが頭に浮かんだ。

路上で亡くなると刑事事件として扱われるため警察署の管轄になった。持ち物や近くで同じく路上生活していた仲間や彼らを知る我々も聴取された。

結果、身分証明書は持っておらず、彼が語っていた名前で調べても、戸籍は見つからなかった。わかったことは2つだけ。青森の出身で家を継ぐではない、次男以降ゆえに若くして故郷を離れたこと。仲間も『ワタナベ』と呼んでいたということだけだった。

本当の名前が『ワタナベ』かどうかわからない。何か複雑な事情があったのだろう。彼が存在したという記憶は関わった人だけに残っているだけだった。

我々は、小さな葬儀をおこなった。

通常、身寄りがなかったり、葬儀が出せない場合には、国の福祉葬という制度で火葬され、行政の無縁墓地に納められる。警察と葬儀社にかけあい、我々で費用を持ち、小さな場と時間を設けた。

『ワタナベさん』を知る10人ほどが集まった。ひとりずつ彼の思い出を語り、何があったのかを分かち合った。宣教師であった代表のチャールズが弔いのことばで締めた。私はぶつけようのない、無念に溢れた。

それから数日悩んだ。4月から働く予定だった、念願の食品流通のバイヤーの内定を断った。1月に正職員の打診をされていた代表のチャールズに

「1年だけやる」

と伝え、内定先のおよそ1/3の収入のNPO法人セカンドハーベスト・ジャパンの正職員になった。

フードバンク部門の統括となり、罪滅ぼし1年のはずが4年を過ごした。3.11直後には2hjの先発隊として東北入りし物資輸送に奔走した。その後、別の団体から打診をうけ、宮城県で公益財団の立ち上げの事務局長として4年間、東北復興にかかわった。非営利分野で30歳からの計8年は、誰のための時間でもなく、社会を気にすることなく、ただ自ら選んだ道、そのものだった。多くの美しいこと、つらいこと、希望、そして可能性に触れ、世界が大きく拓けた。

まぎれもなく『ワタナベさん』に導かれたものだ。

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