『光と私語』と微分方程式

人々がみんな帽子や手を振って見送るようなものに乗りたい/𠮷田恭大『光と私語』(いぬのせなか座・2019年)

今年の塔8月号に書評を載せてもらって以来、というか寄せる前からずっとこの歌集を読みあぐねていた。落武者のように総合誌やネット上の書評を徘徊し、何となく表面上の話は理解できても自分なりの解釈は得られずにいた。

引用歌。付録の栞文等で何度も目にした「特定しない」「あえてピントをずらす」「構造による抒情」といったような彼の短歌に見られる技法を共通鍵にして語られる歌だ。この共通鍵によって解かれる彼の歌は多いように思う。

確かに、この乗り物が何なのか、それに乗る人と見送る人の事情を描かずに構造だけを抜き出すことによってその状況の持つ奇妙が表出している。この奇妙が面白い。

けれどこの歌の面白さはこの奇妙、曖昧さそのものなのだろうか、という疑問が常に残る。だとしたら、曖昧さをどう捉えたらいいのだろう。

思うに、このような歌は微分方程式に例えられるのではないか。歌集の栞文で堂園昌彦と荻原裕幸が示した共通鍵、とそれに付随する数多の書評は言い換えれば微分方程式のことを言っているのではないか。

(ものすごく危うい部分↓)

極めて横暴であり目も当てられない仮定だが、従来の短歌(あるいは物語)はn次関数や方程式のようなものとして捉えられうるとする。要は(2変数だとすれば)座標平面に広がる一本の直線や曲線、円、etc…である。そしてそれらの要素は(X,Y)という数の組だ。私は従来の短歌を読むことは、ある関数を解析すること、概形を把握し頂点や中心の座標を求めようとすることに(概念的に)例えられると思う。
混乱を招くのでこの関数の概形や座標が一首の中で何なのかを定義するのは今はやめておく。あくまで私の話の中の一つの例えとして受け取ってほしい。(韻律等とも整合性を取ろうとするとほとんど現代アートみたいな軌跡になってしまうらしい)

(ものすごく危うい部分↑)


微分方程式の解は数値ではなく関数である。微分方程式そのものは「場(ベクトル場)」として捉えられる。例えば台風。発生場所や勢力の条件が定まれば「場(周りの気圧や偏西風)」によるその後のおおよその軌跡が解としてコンピューターで予測される(微分方程式は紙と鉛筆では解けないものも多い)。例にしてはかなり複雑なものだが、簡単に言うと微分方程式とはそういう「場」を表している。

人々がみんな帽子や手を振って見送るようなものに乗りたい/𠮷田恭大

再度、引用したような短歌のどこが微分方程式なのか。それは条件を定めたときに解としてある一つのストーリーが導かれる点にある。別れのテープいっぱいに出航する旅客船、打ち上げから数十秒後に空中分解するスペースシャトル、あるいは天皇即位祝賀パレード……。条件は経験や歴史、私に無数に内在している。それらが全て当てはめられ、それぞれの解の軌跡が描かれたとき初めて読者の中に場の像が浮かび上がるのではないか。

徹底されているのは、逆に条件が無ければ歌は像を結ばないところだ。歌そのものはただ「場」として存在する。(この歌では結句の「乗りたい」という感情が「場」を緩く支配している。台風の例で言えば地球の自転 = コリオリの力あたりに相当するかもしれない。)

彼の短歌が「場」として成立しているのは前述の彼の技法(共通鍵)や、井上法子の言う「拡散した〈私〉」(現代詩手帖・2019年5月号)によるものや、コラージュを用いたフレージングの、緩い結合力によるものだろう。

日が変わるたびに地上に生まれ来るTSUTAYAの延滞料の総和よ

栞文で荻原裕幸の言った新しさの一種である「懐かしさ」とは、いわば自分の持つ条件や軌跡が、作品のそれと形が似ているとか位置が近いとかではなく、作品の形成する場に完全に含まれるときに生じる感覚なのではないか。そうぼんやりと直感する。


(あまり方法を固定するとよくない気がするので今は程々にします)


「場」を持つ短歌を微分方程式に例えることで、ある手段が思い浮かぶ。それは題詠である。題詠の題として「場」の短歌を設定することは条件を与えて微分方程式を解くようなものだ。導かれる一つ一つのストーリーをはっきりさせることで、より「場」を明確に捉えることができるのではないか。単なる二次創作には過ぎないはずだ、が。個人的な読みの試みとしてやってみたい。





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