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Florence を遊んで

#Florence

以前、Florenceというゲームを実況にて遊んだことがある。
もうかれこれ一年以上前になるけれど、その時に感じたことをつらつらと書こうと思う。
要は遊んだ時のレビューのようなものとして読んで頂ければ幸いだ。


ゲームとは何か。倒すべき敵がいるもの。他のプレイヤーと切磋琢磨するもの。競技性を孕んだスポーティーなもの。 様々な形がアンサーとなりうるものの、その中のアンサーの一つに物語を紡ぐものも当然ながら含まれている。

倒すべき強敵、それぞれが抱える理念やキャラクターの生い立ちによる葛藤。それぞれの想いをのせてゲーム体験を通じ物語へと昇華させられるそれらはドラマティックであればあるほどにプレイヤーの心を刺激し、時には物語への涙すら流させる。
では、このFlorenceに倒すべき敵と壮大な物語が含まれているのかと言えばそれはNOである。Florenceに含まれているのはあくまでもひょっとすれば現実のティーンエイジャーでも、社会に揉まれていった大人たちの中でも体験する人でありふれているような人生の一ページである。

ではその一ページがなぜゲームたりえ、そして遊ぶ人によって言葉で上手く言い表すことができないような複雑な感情を抱かせるのか。素晴らしいBGMの仕事もあるだろう。人生のコミュニケーションをうまくパズルゲームに落とし込めた、それでいて複雑すぎない単純なゲーム性もあるだろう。
だが、何よりもこの言ってしまえば普遍的な物語構造が何よりもこのFlorenceにおいて強力なエッセンスになっている。
普遍的と言えばマイナスイメージを抱く面もあるかもしれないが、しかしそれは誰にでも身に覚えがある、あるいは身近に想像し易いということである。

壮大な物語には強敵が必要だろう。時には旅した仲間との別れも必要だろう。胸を焦がすような冒険が必要だろう。その中に少しでも身近に感じやすい要素を入れて少しずつ感情移入をさせていくのが、ゲームの物語の手段だ。 しかしFlorenceに冒険はなく強敵はない。あるのはただ身近な物語と、誰しも経験したような苦く、そして振り返れば少しの輝きをもって自分を過去に浸らせる現実である。 そう、だからこそFlorenceは普遍性を武器として、ありのままの人生の一ページをゲームとして、そして物語として手を差し伸べている。

さて、ここまでは自分自身のディスコードサーバーにも綴った内容だ。
ここからは、さらに少しだけ、語ろうと思う。

普遍的で、だからこそ胸を打つ。
ゲーム体験というのはいつだって人の記憶に刻まれていく。
感動的な物語が、強敵を倒した時の達成感が、あるいはゲームシステムそのものに起因する面白さが。
その記憶はいつだって生活の隣に息を潜めている。たとえ大人になって世の中の忙しさに忙殺されようとも、楽しみを見出す気力さえ尽き果ててしまおうとも、人のパーソナルな部分にひっそりと、彼らは息を潜めているのだ。
声をあげることもなく、ただ自分たちが記憶した「いつかわからないあの頃」を掘り起こされるのを、待っている。
そしてこのゲームが掘り起こしてくるのはゲーム体験としての、積み重ねてきたプレイヤー自身だ。
ゲーム体験として「経験」を、「別れ」を、「出会い」を繰り返してきた人生というゲーム体験を想起させる。
人生はクソゲーという言葉はなるほど納得をせざるを得ない悲しい文脈ではあるけれど、そこにある苦みと同時にどこか手を伸ばしたくなってしまう人それぞれの「あの頃」を、このゲームは思い起こさせる。

人の記憶は移ろいやすいものだから、そんなことはなかったと言い張ることだってできる。捏造だって簡単だ。
けれど、きっとそれでも自分の中にあった「あの頃」は、息を潜めて隣にいつだっているんだろう。

前を向けなくたっていい。前を向くことが辛い人だっているだろうから。
けれど、隣を見るくらいはいいだろう。横を向けば、Florenceという彼女はいつだって貴方の「あの頃」を力にしてくれるだろうから。

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