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2月のこと

2月はいろんなことが押し寄せてきて息ができなくて苦しい月だった。

やりがいのある仕事、育児、猫の看取り。

なんで今まで暇な時間はたくさんあったのにこんなにも色々なことが重なるのか。人生はバランス良くなかなか歩けないものだなぁ。

私にはせんせいという名前の愛猫がいる。末期の腎不全と診断されて数日しか持たないと言われた愛猫は3年間サプリや投薬、毎週の点滴通いで体調は安定していた。

それが今年の2月14日の通院後急に食べなくなり、眠れないほど調子が悪そうで夜中に私が授乳で起きると変な場所でうずくまっていた。その日は昼過ぎまで家族で出掛けていて、帰宅後疲れた私はせんせいとうとうとお昼寝をした。一緒に寝たのはその日が最後になった。

その日から全く食べず毎日通院した。激しい下痢で水分はみるみる失われる。血液検査をすると腎数値は測定不可能、おまけに膵炎まで発症していた。とにかく延命はしたくない。穏やかに見送ってあげたい。痛みだけ取り除くため痛み止めや吐き気止めを輸液で入れてもらう。

とにかくなんでも食べれるものをと、色々なおやつを買い込み、せんせいの大好きな赤福のあんこを食べさせようと京都駅まで車を走らせた。せんせいは赤福のあんこに目を輝かせぺろぺろと舐めた。そしてカリカリのおやつを少し食べた翌日から歩くこともままならず、食べない、そして水も飲めなくなった。水が飲めないのに家中の水場をフラフラと彷徨い続ける姿。飲みたくても飲むことができずまた次の水場に行く。時々よろけて倒れながら。その度に泣いた。涙が枯れるほど泣いた。別れが近いことは私にもわかったし、せんせいが一番わかっていたのだろう。今考えたら、この数ヶ月いつもより甘えたがっていたし、ストーカーのようについてまわりあんまり近づかなかった子供の近くにそっと座ることも多くなっていた。

この子はもうずっと前から旅立つ準備をしているのに過剰な治療で逆に苦しめているんじゃないか。もうゆっくり自然のままにしてあげたい。でももしかしたら延命すればまだ頑張れるのではと葛藤し、結局通院と治療を一切やめて家でゆっくりと過ごすことに決めた。

まだ寒い2月最後の日、朝一緒に少しベランダで日向ぼっこをしてもう歩けなくなったせんせいは窓際で痩せた体で横たわり、何度も痙攣をおこした。その後ろ姿は本当にこの世のものとは思えないほどに美しかった。夫が帰ってきて安心したのか痙攣は収まり、その間に晩御飯を食べた。その間に眠るように息を引き取った。病気とは思えない艶々とした毛並みで寝ているような穏やかな顔だった。ちょうど10歳5ヶ月。

せんせいがいなくなることが怖くてたまらなくて
私の心と身体は悲鳴をあげて、何日も頭から足の先まで蕁麻疹が出て身体中がボコボコと腫れ、掻きむしった傷跡がヒリヒリした。
せんせいが亡くなったその瞬間から蕁麻疹がひいた。怖かった。本当にそれほどまでにせんせいを失うことが怖かった。

この10年せんせいは私の生活の人生の全てだった。体調を崩し仕事をやめて人生のどん底だった時期に出張先から連れて帰って一緒に暮らし始めた。それから子供を産むまでずっと一緒に過ごしてきた。本当に夢のような時間で、せんせいと日向ぼっこをする時は、あぁこんなに幸せなら今死んでもいいなといつも思うほどに美しい時間だった。

子供が産まれて8ヶ月、戸惑いながらもせんせいは受け入れてくれていた。ただいつも最優先だったせんせいとの時間が少なくなり我慢させてしまったことが何より心残りでせんせいの気持ちを思うと今でも胸がぎゅっとなる。

いつも守られていたのは私だったんだとせんせいの不在が教えてくれる。せんせいには愛しかない。せんせいがいない毎日は何かが足りなくて心細い。

あの10年はせんせいと過ごすために用意されていた人生のギフトのようなものだったんじゃないかと思う。

せんせいに会いたい。





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