触発、敬語、遺書

郷愁を振り返り、嗜んだりできるほど、私は舌が肥えていません。
それでも。
それでも、苦さに目を泳がせては、想起して。
言葉に整形していくたびに、ちょうどしつけ糸をほどいていくような不安感が体中を巡っても。

なんとかこの文を終わりにまでこぎつけさせてあげようと思います。
この矜持は優しさの源泉であるはずです。


本来は他者との交流の話を書きたかったのですが、残念ながら、そのようなストックが自分の中に認められませんでした。
蓄積がないというより、その経験を"情報"としてのみカテゴライズしてしまっているのです。
SNSで個人が怒鳴る「一般論」を一旦仮の知識として仕入れ、それを現実世界の関わりの中で答え合わせをしている感覚。
そしてそれをまた個人のデータベースの中に概念として戻しているような積もりでいます。
社交を、社交面して社交をしていない。それが私です。

なぜそのような作業を繰り返しているのか。結局、社会の側に溶け込みたいのだと思います。大人数の普通をかき集めて、それが本来の姿であるかのように場面に応じて着替えていく。幼いころからのライフワークです。
それができているから、私は変なやつ界のなかでも、面白として受容される存在でいられているのでしょう。

それでは、同じように変なやつと形容された人たちの話をしましょう。
この手の話は得意です。概念として抽出された人は、社会スキームによって規定される次元と違う、素っ裸でいられるから。




。。。て思ったけど、最近めっきり人モチベーション下がってるからわざわざ書きたいことなかった。これで終わり。ごめんなさい。

ごめんなさいって久々に使いました。貴重な機会をありがとうございます。

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