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明(あき)らめる、ということ。

今日は少し個人的なことを書こうかなと思います。

実はもうすぐ40歳を迎えます。まさか自分が40歳になるときが来るなんて、子どものころの自分を思うと不思議な気持ちにさえなります。少しずつ加齢による身体の変化も感じたりしていて、これからはやりたいようにやってきたライフスタイル(特に睡眠時間!)も見直していく必要があるんだろうなとも考えます。

40歳というと、どうしても「四十にして惑わず」という論語の一節が頭に浮かんでしまうのですが、この言葉の捉え方には諸説あるようです。検索してみると、その字の通り「不惑」、腹が座るというのか、物事の道理がわかり、自身の生き方や考え方に迷いがなくなるというものや、「惑」の字は実は「或」の字であって、自分の枠組みを固定し過ぎず、むしろ四十からまた新たな可能性を広げていこうというものもありました。

なるほど奥が深いなと思いながら、私自身はまずここまで生きて来られたことそのものが、とにかく有難いという感謝の気持ちと、ここからはもっといろいろな世代の人とも協力したり、互いの考え方や価値観などを知り合い、認め合いながら共生していきたいという思いが強く湧いているのを感じます。

その中で、1つ、さいきん特に大事にするようになった考えが改めて頭に浮かんだので、言葉に残しておきます。それは「あきらめる」ことの大切さです。タイトルには「明(あき)らめる」とあえて書きましたが、ふだん私たちが使っているのは「諦める」の字がほとんどです。

私たちは、子どもの頃からことあるごとに「諦めるな」と教わってきたような気がします。とはいえ、わりといつも諦めの早い子どもだった私は「お前は欲がない。やればできるのに、、、」的なことをよく言われた記憶があります(可能性を信じてもらえるのはありがたい話ですが、、、)。そして今親になって自分も子どもについ、「最後まで諦めないで、やればできるよ!」と言いたくなることが往々にしてあります。ただしこの考えは、半信半疑くらいでいるのがちょうどいいのかなと最近考えています。

Twitterにこんな投稿をしたことがあります。

疲れによる限界は潔く諦める。時間による限界はギリギリまで粘る。サステナブルな学習の大事なポイントだと思っています。

これは、時間の枠が限られた場で、例えばテストの時間内に最後の1秒まで諦めずに取り組むことは大事だと思うけれど、そもそも自分で決められる枠の中で勉強しながら疲れや無理を感じているなら、その時は潔く諦めて休んだ方が良い、学習の継続にはそういう視点が大事なはずと感じて、その時の思いを言葉にしていました。

これは学習に限らず、人として生きていく上でも大事な考え方だと思っています。先ほどの「諦めるな」の話でいくと、「諦めない=無理をしてでもやる」というふうにとらえがちなのですが、この考え方はこれからの社会からは少しずつ減っていくんじゃないかなと思います。

デジタル化やロボティクス、AI技術が浸透していく世の中で、人間が無理をする必要はだんだんなくなっていき、むしろ健全な状態の中にある余白や余裕から人間にしか出せないアイディアを生み出していくことが大きな価値につながなっていくのではないでしょうか。

よくよく考えれば、これまでの右肩上がりの経済成長を前提とする資本主義社会の在り方にも、結局は「諦めずに、無理をしてでもやり続ける」というマインドが根底にあるような。そしてものすごく不自然な、実際に無理のあることをやり続けてきた結果、今の私たちは様々なところで大きな歪みと直面しているのかもしれないと思ったのです。

そこでタイトルの「明(あき)らめる」に戻って考えたい。「諦める」でももちろん良いのですが、何となくその字にネガティブなイメージがつきまとうと感じるのは私だけではないはず。「明らめる」で意味を調べると、ものごとの事情や理由を明らかにする、ものごとの本質を見定める、などと書かれています。盲目的に理想を追求する時代は終わり、今地球上に、日本の社会に存在する一人間として、自分の身の丈に良い意味でフィットする、本当に大切なことを見極めるための時代に生かされていると感じます。

今、自分は無理をしているかも、と感じる人がいたら、少しだけ手を止めて考えてみてほしいのです。「そこまでする本来の目的は何だろう?」「それは誰のため?」「今、改めて考えてその無理は本当に必要なこと?」自分に問うてみて「明らめる」ことで、今の自分にとって本当に大切なこと、必要なこと、フィットすることを見定めて、心地よく生きていけると良いですよね。

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