見出し画像

ウィークネスフォビアを超えて 

(支援 vol.13号原稿)

1.市中のメンタルクリニックから見える景色

私は地方都市でメンタルクリニックを拠点に、主に知的・発達・精神障害の親子と若者の診療をおこなっている精神科医である。

関わることが多いのは、さまざまな原因で認知、思考、行動面にさまざまな不自由さ不器用さを抱え、疲れやすく、周囲の状況や自身の感情をほどよく理解し、自分のことを上手に伝えるといったことが苦手な人たちだ。

彼らの障害は一見分かりにくいがゆえに、周囲の理解や支援が得られにくく、ただ頑張らされがちで、また自分でも理解できないまま周りに合わせようと頑張り疲弊する。そしてコミュニケーションが器用ではないことから周囲の人と摩擦をおこしがちである。

しかし、いざ診断が付き障害だということになると、今度は親や支援者からは、本人の体験や意向などを聞かれることもなく、危険な人、何もできない人、安全が守れない人としてお世話(保護)をこえた余計なお世話(干渉)をされたり、一方的に排除されたりする。

このように傷つく体験を重ねがちで、当初は身体症状、精神症状、行動化など様々な方法でその苦しさを訴えるが、徐々に全てをあきらめ強いものにただ従うか引きこもるようになる。これはこころをなんとか守り、生き延びるための適応的な行動でもある。

こうして社会との関わりが少なくなると、さまざまな経験をつむ機会も剥奪され、ますます挑戦ができず生きるのが辛くなるという悪循環に入ってしまう。結果として地域社会から隔離され、メンタルの不調から自死や追い詰められての他害に至ることもある。

診療ではこういった悪循環を回避し、人権の観点から彼らや周囲の人の安全を確保した上で、双方のトラウマをケアしつつ、勇気づけ、本人と周囲の環境を調整し、周囲の人との対話的なコミュニケーションを支援する関わりをおこなっている。

診療をしていて日々感じていることは、この国のウィークネスフォビアは実に根深いということである。ウィークネスフォビアとは内田雅克氏の造語で“「弱」に対する嫌悪と、「弱」と判定されてはならないという強迫観念”であると定義されている。「失敗は許されない」、「弱いものは強いものに従え」という誤学習が社会の隅々まで行きわたっているのである。

我々は自身のトラウマを癒やし、ウィークネスフォビアから脱する必要がある。本稿では、最近の事件や、私の体験、診療で見聞きする出来事を素描し、今回のテーマである安全・安心のむこう側について考えてみたいと思う。

2.安全安心な子ども時代を全ての子どもに

まずにはじめに強調しておきたいことは、未熟であるまま産まれ絶対的弱者である子どもを守り育てることが、人間の社会の本来的な役割であるということだ。

全ての子どもたちが不安なく苦痛なく混乱なくすごせる、安心・安全でやすらげる場所の保証することは全ての大人の責務である。

しかし、コロナ禍当初の一斉休校では、普段から弱者であった貧困や障害のある親子がますます困窮し、学校の果たしていた福祉的役割があきらかになる一方で、一部の子どもたちにとって学校は実はとても辛い場所であったということが明らかになった。

「子育て罰」といわれるほどの子育て支援の少なさ、教育の貧困、子どもの権利の軽視、児童扶養手当や障害福祉サービスに対する種々の所得制限など、安心して子育てできる環境でなければ少子化が進むのも当然である。

小児期、とくに発達早期は、保護者から見守られた安心安全な環境の中で、自分に対する肯定感や世界に対する信頼感を育む期間である。そして安全基地から少しずつ世界を探索し広げていく。保護者にひっついてケアされ、また挑戦するということを繰り返していき、規則性一貫性をもったかかわりのなかでそれを内在化していく。

しかし保護者が不在だったり不安定だったりするなど逆境的な小児期だと、安全基地がぐらつき世界の安定性を信頼できなくなり、その後の神経発達や健康が影響を受ける。

予防的なことを取り組むと同時に、さまざまな行動問題の背景には、逆境的な小児期体験があるのかもしれないと想定するトラウマを考慮した上の関わりで、再トラウマ化を防ぐというトラウマインフォームドケアという公衆衛生上のアプローチがすすめられている。これは全ての支援者が知った上で関わってほしい大原則である。

さまざまな障害があったり、家族の養育能力が欠けたりといった様々なリスク要因がある場合でも、それを上回る保護要因が社会にあり、リカバリーできるように公教育や福祉制度、共助など重層的多層的な社会のネットワークの中で全ての子どもの育ちを支える必要がある。

3. 無批判に従うことを教える教育の危うさ

令和4年8月に静岡県の幼稚園の通園バスの中で園児が置き去りにされ、灼熱のバスなかで熱中症となり死亡するという悲劇が起きた。

本件のリスク管理に関してはさまざまな観点から検討される必要があるが、園児は親から「バスでは先生に言われるまで静かに座っていなさい」と教えられ、その言いつけを守って最後までバスに残って呼ばれることを待っていたという可能性も指摘されている。

東日本大震災で沿岸部が津波に襲われたときに整列することを優先し皆で津波にのまれていった大川小学校の悲劇も思い出す。これらの悲劇は今の日本社会の息苦しさ、危うさを体現しているように私には思える。

私はとある自由保育の保育所の嘱託医をしている。そこでは自然豊かな環境の中で大人に見守られた緩やかな構造のなかで子どもたちは実によく遊ぶ。さまざまな理由で他の園では適応できなかった子も来るのだがインクルーシブに一緒に活動をしているのを見て驚く。

しかし彼らにとって学習規律や集団適応を最初から重んじる公立小学校は小1のギャップが大きい。入学を控え小学校に見学にいった子が、「並ばされるのがいや。」と訴えていた。

学校教育には社会からの要請だと英語教育だの金融教育だのプログラミングだの道徳だの何でもかんでも詰めこまれ、今や先生も子ども達もあそぶ暇が無いほど忙しい。

発達早期から協調性や学習規律が過度に重視され、学ぶ内容や順番は細かく決められ、大人の思う正解を押し付けられ、断片的な知識をつめこまされ、常に比べられ、競わされ、頑張らされ、強いものの顔色をうかがって従うことを学ぶ。このような教育には危うさを感じる。

日本の“競争主義的な教育制度”、さらには“社会の競争的な性格”が子ども時代と発達を脅かしていると国連子どもの権利委員会からも指摘されている。今や学校教育は何を教えるかではなく、何をしないかということを考える必要があるだろう。

学校教育も主体的対話的な深い学び、個別最適化された協働の学びへと徐々に変わろうとする動きはあるものの、予算も人も少なく現場は大変である。不登校が増えているのは多様な背景をもつ子どもたちに現在の教育が適応できていないということなのではないか。

子育てや教育は成長を横で比べずに縦で見て、その子の興味関心や成長、学習スタイルに合わせた育ちの環境を整えればいいことなのであるが、心理的、実際的にはなかなか難しいようである。この背景にもウィークネスフォビアがある。

4. 自己主張と対話を教えよう

発達障害といわれる人たちは感じ方や行動様式、育ちの道筋やペースがそもそも異なる種族であるともいえる。周りの子どもの平均的な育ちと比べず、その子に合わせた通常よりもより丁寧で対話的な子育てが必要である。

彼らを闇雲に多数派の“普通”に近づけようとするようなトレーニング的な療育や、“常識“を押し付けるもの、協調性を過度に重視して、個人を尊重されない環境で育てるということは、将来のメンタルヘルスの問題をかかえるリスク、また触法や強度行動障害、ひきこもりなどのリスクになる。

発達障害の子どもたちは良かれ悪しかれ育ちの環境の影響を受けやすい。彼らが行動問題や不登校、あるいは触法や強度行動障害、ひきこもりなどで社会の中で浮き上がってきているということは、教育や社会のあり方に対して炭鉱のカナリアのように警鐘を鳴らしているとはいえないだろうか。

教師や保護者などの周囲の支援者は彼らに対等に接しモデルとなることが必要なのであるが、自分が自由に生きていないことのイライラを彼らにぶつけて力で従わそうとしていないだろうか。

自閉スペクトラム症の方に適したPECS(絵カード交換式コミュニケーションシステム)というコミュニケーションを教える方法論がある。PECSの要諦は、自閉症の方にまず自発的な表出を教えるということである。その上に拒否や要求、指示に応じるなどの重要なコミュニケーションを教えていく。

すると親や先生に対しても「わかるように教えて下さい」、「休みたいです」などと適切に主張して交渉できる。好きなものや嫌いなものが多数派と異なる彼らは「わがまま」だとみなされやすいが、主体性を尊重され、絵カードや筆談などで視覚的に意味と見通し、選択肢を伝えられて対話がなされ、本人が納得しさえすれば指示に応じることもできるしルールを守ることもできる。

こういった支援をうけて育った子どもたちは、ユニークな視点や行動特性があり、人と違うことを怖がらず、自分が大好きで、大好きなものがたくさんあり、人も世界も信頼しており、自分も相手も尊重し対話ができる気持ちのいい大人になる。

一方で個人として尊重されず「わがままだと」言われ、嫌なことを拒否する選択肢もなく力で強制されたり、過剰に干渉されたりすると、好きなことは少なく、嫌いなものが多く、人と異なることを恐れ、常に混乱し、自傷や他害、他人を巻き込んだこだわりが多く、常に関わりや見守りが必要な人になるが、あきらめて受動指示待ちの人となる

5. 社会にはもっと遊びが必要だ

日頃の診療の中では、好きなこと、やりたいことなどをよく子どもたちにたずねる。生き物に関わりたい、車に関わる仕事をしたい、などの具体的なことならいいのだが、「公務員になりたい」、「一般就労したい」などの言葉しかでてこない子どもや若者によく出会う。
好きなものは何かと聞くと頭を抱えてしまう若者もいた。

親や教師に洗脳のように「勉強していい大学に行き、大きな会社に入るのが安全だ。今は頑張るとき。好きなことは大人になってからやればいい。」などと言われてきたのだろう。大量の宿題や、校則でがんじがらめにされ、「そんなことじゃ社会では通用しない」などと脅され、拒否の選択肢のないまま従わされつづけていると、感じたり、考えたり、自己主張すること自体を諦めてしまう。家庭内暴力やカルト宗教、ブラック企業などの洗脳と同じ構造だ。

そうやってなんとか大企業の正社員や、公務員、有名な特例子会社などいい身分を手に入れてよかったね、では終わらない現実がある。たとえそこが自分に合わない環境であったり、組織に不正義があっても、そこから逃げたり相談したりという選択肢が見えず過労自殺や過労死にいたる危険性がある。運良く生き延びたとしても今度はハラスメントをする側にまわりかねない。

こういった事態を避けるためには主体性を育むことが必要だ。思い切り遊ぶ中で欲望を形成し、自分が好きなものを見つけたり育てたりすること、さまざまな人と対話を重ねることで自分軸を育むことができる。

目的なく、いまここに集中してこころを遊ばせること。そしてギャングエイジの小集団で、大人の目のとどかないところで遊ぶこと。こういったことが必要なのだが、多くの地域では子どもたちだけで遊ぶ場も時間も少なく、安全のためと大人に管理された世界で管理されたようにしか過ごせなくなってきている。子どもたちが比較的安全に自由に集い遊び語れる場が今やオンラインゲームの世界しかないというのは寂しい。

あそびがない社会の行末はハンドルにあそびの無い車同様危険であると思う。

6. 仲間との時間と葛藤を奪わないで

もう20年くらい前の私の大学時代の話である。私の通っていた総合大学のキャンパスの中心にあった学食や生協などのある建物のロビースペースにBOXとよばれる場所があった。

そこは部やサークルごとのたまり場となっており、ボロボロのソファーやカラーボックス並び、連絡ノートや本など雑多なものがおかれていた。授業の空きコマや放課後などにそこにいけば先輩や後輩など誰かがいた。新年度などは新入部員を勧誘するためにもボックスは重要で、ボックスキープのシフトを維持するための人員が組めなくなった弱小サークルはBOXを新興のサークルに奪われるという入れ替え戦もあった。

ある年、大学当局が学生の安全と公平性のためと一方的にBOXを取り潰し、キレイなテーブルと机の並ぶ小綺麗なスペースになり、結果としてあまり人がよりつかない面白みのない場になってしまった。

いまはSNSなどもあるとはいえ、コロナ禍も加わり、高校や大学時代にさえ、趣味などを通じた対等な関係性の中であそび、人間関係のさまざまな葛藤やトラブルを安全に体験する経験を詰むことが難しくなってきているのではないかと思う。

特に特別支援学校などを卒業してそのまま就職した若者や、不登校などが長く仲間づくりが得意ではない若者たちは、地域からも孤立しがちでこういった余暇活動を通じた遊びや仲間づくりの経験をなかなかもつことができない。

就労支援の事業所などでも、トラブルが起きたらこまるから安全のためと利用者間での連絡先の交換や施設外での交流を禁じたりするところもあるようだ。じつに余計なお世話である。

リカバリー、リハビリのための施設でもある精神科のデイケアでは、スタッフも手助けのもとメンバーが自分たちで企画をして楽しむ仲間内でのサークル活動のようなプログラムが多い。トラブル上等で、むしろチャンスと皆で話し合うようなところが理想だ。

若者が大人になっていくためにはこういったあそびと仲間内での自治の経験は必要なのではないかとあらためて思うのである。

7. 社会のOSをアップデートせよ

精神科医療の立場で診療していると周囲の人や支援者から「安全のため、お薬を、あるいは入院を」と患者さんを丸投げされることがある。
 
もちろん身体的不調や躁状態、幻覚妄想状態など、医療による保護と薬物等による治療が必要な場合もある。しかし多くの精神的な不調は彼らを孤立させたり、不安させてしてしまったり、過度に干渉したりするなど対話がないことが状況因としてある。お薬や入院は場合補助的な役割にとどまり、本人というより支援者の安心のためという場合も多い。

多様な背景をもつ人に社会制度や教育体制が追いついていないため、社会で包摂できず障害状態を呈する人がでてきている。医療モデルではなく社会モデル、そして障害の文化モデル(対話モデル)で考える必要があるだろう。
 
VUCA(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)の時代といわれ、皆で信じられる大きな物語はなくなってしまった時代である。だから多様な見方、考え方を共有し、オープンでフラットな対話をつづけることがこれまで以上に大事になってくる。

対話とはそれぞれ違うものどうしが、お互いの超えられない違いを理解した上で、同じ時間空間を共有する際に、合意できる部分を探る営みである。ビジネスの世界でも圧倒的強者のいない自律分散型組織、そして心理的安全性がトレンドになっているという。ヒエラルキーを廃したフラットな場でこそ対話はなりたつ。

個人の、そして社会のOS(オペレーションシステム)を、時代遅れの「力をベースにした弱いものは強いものに従え」というものから新しい「多様性を認め相手を尊重し対話をつづける」にアップデートする必要がある。そのために必要なことは「あそび」と「対話の継続」である。弱さを公開でき、トラウマを安全に語れる社会、その上にそれぞれの幸福(ウェルビーイング)を追求できる社会を目指したい。

参考文献)

内田雅克2010『大日本帝国の「少年」と「男性性」―少年少女雑誌に見る「ウィークネス・フォビア」』明石書房

樋端佑樹2021「新型コロナ禍による一斉休校でみえた学校の役割と課題」『長野の子ども白書(2021年版)』52−53P 長野の子ども白書編集委員会

アンディ・ボンディ (著)、ロリ・フロスト (著)、門眞一郎 他訳2020 『自閉症児と絵カードでコミュニケーションーPECSとAAC-第2版』二瓶社

碇浩一、緒方良1982「分裂病者に対する“あそび”を治療目標とした集団療法(あそびごっこ)の試み」精神経雑誌第84巻第4号209−226P

樋端佑樹2021「余暇活動こそ本質活動!」『コロナ禍で不安になった君へ。』10−12P 群馬大学大学院医学研究科精神医学(冊子)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?