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心霊ドキュメンタリーとの決別(仮)

 こんにちは、はぐれです。

 AmazonPrimeで配信中の『心霊マスターテープ2』を観た。前作の設定・構成が好きだったので続編も楽しみにしての事だ。

 と書くと批判しそうな文脈になるけど、や、面白かったのは面白かった。ただ、心霊ドキュメンタリーというジャンルは、もしかしたら俺に合ってないんじゃないか、と不安に駆られた。

 まず一話の冒頭だけ触れると、前作『心霊マスターテープ』のシナリオは全て虚構であると明かされるところから始まる。そりゃ、俺も作品とリアルを混同している訳では無い。ただ、俺の中では、『マスターテープ』という作品世界はリアルから独立していて、彼らが出会う怪異というのは彼らにとっての『リアル』である、と思っていた。

 なので、作品内で「前作はぜんぶフィクションでござい」と言われると肩透かしというか、見方を間違えていたな、と感じて残念になる。『2』はそれを前提とするシナリオだから仕方ないんだけど。

 また、これを行ったことで何が起こるかと言うと、今後に起きるスリルもすべて虚構で説明がつくことになり、恐怖の傍観化、つまり味気なく面白くないな、という印象を抱いてしまうことに繋がった。これはあくまで俺の場合はという話で、最初から『この物語はフィクションです』と書かれているんだからまったく問題が無い、というスタンスで見ていれば話は変わったハズだ。

 とは言え”フィクションです”という文言は他ジャンルでも定型文と化しており、それだけで説明が完遂されるものではない。だから、解釈の余地があることで発生していた面白さ、と言うものが減衰してしまい残念に思われた。

 みたいなことを友人に語ると、「白石晃士の本では、そこはやっぱり受け手の解釈の取り違えの問題である、と書かれているよ」と補足を受けた。そこから発展して思ったのが、心霊ドキュメンタリーのスタンスと俺の感じるロマンの領域は、もしかすると一致していないんじゃないか、という疑念な訳だ。

 数年前、俺は友人の紹介で『コワすぎ』を知ってこれに大いにハマったのだが、マスターテープ同様、俺は『コワすぎ』世界の住人は彼らなりのリアルを生きているものと解釈している。もし、それが全て虚構であると作品内で明示されてしまい、想像の余地が残されなくなってしまったら、もしかしたら白けてしまうんじゃないか、と思う。

 俺は幽霊やオカルトを信じていないが、信じてないだけで存在はするかもしれない。その曖昧さが俺のリアルと繋がっていることにスリルを感じるし、心霊ドキュメンタリーに見出す面白さもまたそこにある。彼らにとってのリアルと怪異は一続きの世界にあってほしい。だから、全てが人の手による虚構という解釈を地盤として欲しくはねえ~~~んだよな。わがままだけど、ねえ~~~んですわ。

 だから、俺はここで心霊ドキュメンタリーと別れた方がいいかもしれない。でもコワすぎの続編もマスターテープの続編も見てえよ……ゾゾゾも面白いし。ゾゾゾは廃墟探索モノとして見てるけど。

 どうすりゃいいんだ~~~~~~っっ!!!!

 今は結論が出ないから、これは後々の課題だ。俺が自己満足で作品をつくり、直ちに記憶喪失して視聴するのが一番なのだが……

 まあ、とりあえずモヤモヤを言語化して血肉に出来たのでよし。おさらば!!!

(終)

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