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善業の向こう

とある地下鉄のホームで電車を待っていた。
何となく電車が来る方向に目を向けていると、その方向からホームの端を歩いてくる若者がいる。
暑い夏の日曜日の昼下がり。殺陣の練習に向かうため肩に刀ケースを掛けた俺は天井にあるエアコンの吹出口の真下で、心なしかおぼつかない足取りの若者を目で追っていた。
若者が俺の前を通り過ぎる。顔色が悪い。ちびまる子ちゃんに出てくる藤木くんの様だ。熱中症かと少し気になって通り過ぎた後も彼を見ていたのだが、20メートル程離れた所で俺は顔を逸らし前を向いた。その時である。
ドンッ!
音の方を向く。俺は思わず「え、マジかよ」

藤木くんが線路に落ちていた。

「わっ」「やだっ」といった声とともに近くにいた人達がわらわらと線路を覗き込む。藤木くんは動いていない。
電光掲示板を見ると『電車がきます』の文字が点灯していた。
こりゃいかん、と思ったと同時に俺は刀ケースを投げてホームから飛び降りていた。そして着地するほんの一瞬に気付く。
あ、俺下駄だった。

カランッ…!

ええい、ままよ。俺は藤木くんのもとへと走り出した。
カランコロンカランコロンカラン!
地下鉄の構内に下駄の音が鳴り響く。コンクリートの道床を二枚歯の下駄でこのスピードで走れるのは鬼太郎かじゃりん子チエくらいのものだろう。それくらい速かった。

辿り着くと藤木くんは側頭部の辺りから少し血を流して気を失っていた。(頭打ったか、マズいな…でも取り敢えずホームに上げなきゃ)
なるべく頭を揺らさない様に気を遣いながら脇の下に腕を入れて抱え上げる体勢になった時、
「何してんの!? 早く!早く!」
ホーム上からカン高くよく通る声が聞こえた。
見上げると、腰を屈めて手を伸ばすおばさん3人の後ろから浅黒く陽に焼け不自然なほど白い歯をした香田晋の様な男が叫んでいる。
(何だこいつ)
香田晋は仕切る。
「お兄さん、早く! 電車来るよ!」「誰か駅員さん呼んできて! 誰かAED持ってきて!」
(うるせぇなこの野郎、気失ってるから重いんだよ。オメーは降りて手伝わねぇのか? つーかその前に列停押せやボケが。その白い歯をやっとこで抜いてやろうか?)
俺は藤木くんを抱えて立たせ、上半身をホームに預けてから足を持ちあげる。それに合わせてホームからおばさん3人が引っ張りあげてくれた。
「大丈夫ですか!? 大丈夫ですか!?」
何もしていないのにお祭り騒ぎの香田晋を尻目に俺もホームへ上がると、

♪ティロリロリロリーン マモナク1番線ニ電車ガマイリマス 危ナイデスカラ…

およそ1分の救出劇だったーー。

役目の終わった俺は、走ってくる駅員とすれ違い自分が元いた場所へと戻り刀ケースを拾う。
結局誰も列停ボタンを押していなかったため電車は時刻通りに到着し、俺は乗り込んだ。
ゆっくりと動き出す電車が現場を通り過ぎる。駅員に説明するおばさんと藤木くんを介抱するおばさん、そしてAEDを持っているだけで何もしていない香田晋。そんな情景を他人事のように車窓から眺める俺を乗せて電車はスピードを上げ駅から離れていった。

「…はぁ〜」

急な脱力感。緊張の糸が切れた俺はため息とともに下を向いた。足の親指と鼻緒の当たる部分が擦り剥けていた。
都会で下駄は履くもんじゃない。


さて、数日後に行ったキャバクラでこの武勇伝をキャバ嬢にペラペラと謳う俺がいた。
キャバ嬢は俺の膝に手を添え、「うんうん」「えーすごーい」と聞いてくれる。香田晋にピンときていないことに世代間ギャップを感じたが、酒に酔って自慢話をし、若い女におだてられて上機嫌な典型的クソオヤジが出来上がった。
そんなクソオヤジにキャバ嬢が言った。
「私も前に同じ様な事あったよ」
「え、なになに?」
ーーある日の閉店後に御飯を食べて朝の7時頃に帰宅するため駅のホームで電車を待っていた。すると目の前にいた女性が急に線路に落ちた。通勤客が結構いたため若いサラリーマン2人がすぐに飛び降りて助けたーー
「おお、日本も捨てたもんじゃないねぇ」
「うん、カッコよかったー」
ーー女性は意識はあったが朦朧としていたため近くにいた彼女が寄り添うことに。駅員が来るのと同時に電車も到着。サラリーマン達は仕事があるからと電車に乗って行ってしまった。彼女は駅員に説明し、そのまま救急車に同乗することにーー
「優しいなぁ」
「どうせ家に帰るだけだったし」
「それでも中々出来る事じゃないよ。おじさん感心しちゃう」
「えへ」
ーー落ちた女性が診察を受けていると、程なくして病院から連絡を受けた女性の両親がやって来た。彼女は恐縮するほどお礼を言われ、どうしてもと譲らない親御さんに連絡先を教えて家路についた。翌日さっそく電話があり、女性が大した事なく済んだ報告と再び嵐の様なお礼を言われて、是非何か送りたいからと住所を聞かれたーー
「それで?」
「そんなのいいからって断ったんだけど、あんまりひつこいから教えた」
「うんうん」
「そしたら菓子折が送られてきてさー」
「へー、良かったじゃない」
「それと一緒に封筒があるわけ」
「封筒?」
「うん」
「何?」
「10万円」
「はぁあ!?」
「ラッキー♡」
…何だその話? 似た話だけど結末が違い過ぎねえか? いや彼女は良い娘だし良い事をした。俺の話が無けりゃ普通に聞けるのだが。
何だか釈然としない俺は、
「いやそれ実際に助けたサラリーマンにも半分貰う権利あんだろ」
「あたしも思ったんだけどねー、どこの誰かも分からないしさー」
「探せ」
「いやフツーに無理でしょ」
「んじゃあ、代わりに俺にくれ」
「は? 意味わかんねーし」
「何でだよ、意味は分かるだろうが」
「わかんねーし」
「俺も藤木くんを決死の思いで助けたんだぜ。足に怪我までして」
「知らねーよ、靴履けよ」
「ぐぬぬ…」
「てかもうとっくに使っちゃったし」
「もう使ったのかよ」
「だって1年くらい前の話だもん」
「…」
俺の頭の中には藤木くんに付き添い親御さんにお礼を言われて10万円を手に画用紙の様な白い歯を見せて笑っている香田晋が浮かんでいた。
キャバ嬢が深く切れ上がったスリットから生足をのぞかせて言う。
「ねぇ〜あたしも何か飲んでい〜い?」
「は? 駄目に決まってんだろ」
お猪口の裏くらいの器しかない俺は死んだ魚の目で答えた。

それ以来、人助けの向こう側にある10万円を求めてホームにいる時は誰か落ちないかと常にアンテナを張っていたのだが、急速に進むホームドアの設置により邪な夢は不様に散っていくのである。

そんな俺は今、スニーカーを履いている。


拙筆 2023年3月
BGM:君は人のために死ねるか 杉良太郎

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