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「間もなく~銀座~銀座~です」
19歳の夏。丸ノ内線の車内放送を夢心地に聞いた俺は右隣に座っていたOLの膝枕で目を覚ました。押し寄せる違和感……ハッとして起き上がる。
「すいませんっ」
金髪にシャツをはだけた見ず知らずのボンクラが肩にもたれかかるどころか膝枕で爆睡。さぞお困りであっただろう。
当然の謝罪である。

ところが――
瞬間的に謝った俺になんとOLは微笑みながら
「大丈夫ですよ」
「…!!!」
びっくりした。なんという心の広さか。その微笑には「ボク、疲れてるのね。うふふ、気持ちよさそうに眠っていたから起こさないでいたのよ」 的な優しささえ窺える。
お姉さんの後ろに大輪の花が見えます。田中美奈子に鼻フックをしたような顔が菩薩に見えます。思いがけない返答にあわあわして目を下にやった俺は更に動揺した。
お姉さんの美脚を映えさせるスカイブルーのスカートに大量の涎が! 伊能忠敬もびっくりな四国大陸のような唾液。「唾液アーティスト中野照久」 の誕生である。言ってる場合か。
全身の毛穴がひらきドッと汗が出ると同時に電車が銀座駅に到着。
…降りなければ。
「ごめんね」 と手を合わせて慌ただしく立ち上がる俺に「いいのよいいのよ」 と手を振る鼻フック美奈子。大勢の客の波にのまれながらただ一人後ろ向きに下車する俺の目線はずっと彼女に向けられ、彼女もまた微笑みながら俺を見送っていた。
「いってらっしゃい。お仕事頑張ってね♡」 そんな声が聞こえるようだった。実際は付き合っているホステスに金を借りに行くのだが…。
ドアが閉まっても窓越しに合わさる二人の視線。心臓が高鳴る。ダスティンホフマンよろしく窓を叩いて叫ぼうかとも思ったが…出来るわけねえだろ。
やがて電車は走り出し、彼女はいってしまった。

一人ホームに佇む――。
俺は鼻フック美奈子に惚れていた。時間にして1分弱程の短いやりとりだったが、19のガキが恋に落ちるには十分すぎるエピソードである。
「また会えねえかな…」 大きく息を吐いた俺は改札へと歩き始めた。いつもは鬱陶しい雑踏が心地よい。うるさい銀座駅構内のさまざまな音も遠くに聞こえる…こう、こもっているような…水の中にいるような……?……ん?………左耳がおかしい。穴に指をやると何かが詰まっている。ほじってそれを取り出した。
……………ガムだった。

指に取ったガムを見つめ考える。

……あっ!!
鼻フック美奈子恐るべし。太腿に涎を垂らし我が物顔で爆睡している俺への腹いせに噛んでいたガムを耳に詰め込むとは。あの微笑みは菩薩などではなく「ざまあみろ」 だったのか!
一瞬で恋に落ち一瞬で失恋した。さっきまで愛おしかった縦長の鼻の穴が大人の暗闇に思えてきた。あのブラックホールに吸い込まれるのが大人になるということなのか。

丸めたガムを指ではじくと少し年上のホステスのもとへ俺は足取りを早めた。


拙筆 2015年3月
BGM:カスバの女 エト邦枝

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